2013年01月31日

至福・至高体験?


あたしは、

気づきがあった時、




「至福・至高」感があったっけ?


なんか、「悟り 体験」でネット検索したら、

悟り体験をした人は、あたしみたいな、みんなが神様! ていう気持ち以外に、




とてもとても幸せで、


感謝の気持ちしかなくて、


涙があふれて、


ありがとうって…


そういう気持ちを味わうみたい…



あたしは、どうだったかな〜??





あたしは、ハッとして、「ああっ、そうだ!!(みんなが神様)」て思ったんだけど、


そこまでで、一瞬で終わっちゃったと思うんだけど。




そういう

感謝感ていうのは、


もっともっと、若い頃に、



なんか突然、



「わあ〜、世界よ、ありがとぉ〜」て思った時があったような気がする。



それは、高校生の時。





あたしは、180度変わった。

きっかけは、ともだちのある一言だったんだけど、


それからのあたしは、

「みんなだいすき、楽しい、うれしい!」ばっかりになって、

それまで超真面目だったから、

前にも書いたけど、「バカ」を演出してみたんだ。

みんなをバカにするんじゃなくて、


あたしが、ぱっか〜んと、

莫迦


になったの。



その状態は、結婚するまで、27才すぎまで続いたんだ。

結婚してからは、いろいろ、また変わったよね。

莫迦ばっかりになってられないからね。



それからが、また、あたしの、生きながらの生まれ変わり、

一生、生まれ変わりの人生なんだけど。




高校生の時は、神様感は、感じなかったな。

まだ、そういう段階じゃなかったと思う。



神様感を感じた時は、至福感は、たぶん無かったな。


「ああっ!!」て、


ただそれだけ。




これから、至福感を味わえる時が来るのかしら。


もっと深い悟りが来るのかなぁ〜。




楽しみだわ。

でも、悟りたい欲求があると、絶対に悟れないからね。


悟りたいって思わないようにしよう…



あ、それも裏があるからダメか…



難しいわ〜。


posted by 辰多みか at 00:00 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年01月22日

絶望の後でしか悟れないのか


あたしは、

落ちて

落ちて

落ちて



(この落ちてというのは、まあつまり、気分の事なんだけど)



外に、原因を探したけど、


よく、よくよく探したら、


それはもう、数年単位で、探したら、




実は、自分の中に原因があったという。




それに気がついた時に、



「気づき」があった。


気がついた時の気づき じゃなくて、気がついた後に、気づき。


(だから「悟り」と言った方が、混乱が無いかも)



自分の、中を、中を、中を、ずっとずっとずっと、奥深くにもぐっていったら、

「気づいた」

奥深く・もう出られないほど深い所は、実は、広大な外につながる、出口だったんだけど。






あたしは、自分の子供たちに、体の成長だけじゃなくて、

心、精神的に成長してほしいけれど、



ほんとうに、本当に、人間として成長するならば、

一度、「絶望」を味あわなければならない。



そうしないと、悟れないみたい。

そういうシステムみたい。





でもそれは、親として、困る。

あたしの立場や見栄が困るんじゃなくて、


子供たちを、そんな状況にさせたくない。

いやだ、という意味で、困る。



親としてのあたしは、いつも、それで悩むのだ。



親ライオンが、仔ライオンを崖から突き落とすとか、

可愛い子には旅をさせろとか、



昔の人は、わかってた人がいたんだね。本当に、本当に、真理だ。



だから、子供がなにをしていても、

命に別条なければ、ほっとけばいいのだ、たぶん。


それで、微笑んで、見てればいいのだ、たぶん。



子供が困って泣いてても、

自殺しちゃいそうな一歩手前まで行っても、



ただ、見ていて、そのままでいいよって、言わなくて心で思って、

その子の、いつでも帰ってこれる、安心できる場所を作っておいてあげさえすれば、いいんだ。

「そうすれば、子供は自分の期待どおりに、なってくれる…かも」とは絶対思わないで、

ただただ、ほっておけばいいんだ。



ただ、目は、離さないで。

なんの見返りも期待しないで、

笑顔で、見守って。


子供の命が無くなりそうになった時、はじめて手を伸ばすんだよ、子供に。

本当は、それさえも放っておいて、手も差し伸べない方がいいのかもしれないけど。




それが、親の理想型で、


一番、子供がしあわせで、

一番、親もしあわせで、

なんといっても、一番 楽。


と、思うんだけど、





いろいろなしがらみがあって、できない。


やっぱり、できないってことは、「あたしにとって都合が悪い」と、あたし自身が

反応するから、できないのだろう。



自分の事もできないのに、子供のことまでなんて、できない。

できないのが、世間一般の親なのだろう。




なんて、なんて、未熟だ。

世間も。あたしも。
posted by 辰多みか at 00:00 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年01月21日

借り物人生

あたしは、持ち家というものに、住んだ事が無かった。

結婚してからは、主人の両親宅なので、

あたしが「家を持った」という事は、無かった。し、これからも、もう無い。

でも、「まあそれでいいんだな」と、漠然と、思っていた。


それは、子供の頃は、まわりと比較して、辛かった時もあったけど、

いつの頃からか、「すべては借り物」と思って、生きてきたように思う。


人からの借り物ではなくて、天からの借り物。

役目を終えたら、天に返すもの。または、物質的な意味で言ったら、地に返すもの。


結構、年の幼い頃から思っていたと思う。

そうする(そう思う)事で、うらやましいと思う気持ち、ねたみ・ひがみが、

無くなっていた事も事実だ。


自分を卑下しないためにそうしていたのか? 道徳的なテクニックなのか?

あまりに昔から思っていた事なので、自発的な考えか、どこからか刷り込まれた

テクニックなのか、判断がつかないけれど。


それはいつのまにか、自分の体についても、同じ考えを持つようになっていて、

「この体は借り物だ」と、やはり漠然と思っていた。

あたしが「悟り」状態を経験するずっと前からだ。


けれどもあたしは、物を大切にしてこなかった。

扱い方が、雑だった。

それは、そういう環境の中で育ったから、他と比較できなくて、

そう育ってしまったんだけど。


大人になって、同僚と買い物に行くたび、物の扱いが雑だ、店の人に怒られるよと、

嘲笑の中で言われた。

仕事でパソコンを操作するたび、キーボード壊れない? と隣の人に言われた。

実際、タブレットのペンが使用不可能になるのは、あたしが一番頻度が多かった。


だけど、当時のあたしは、まったく、なにを言われているのか、わからなかった。

だって、あたしの家では、その力加減が、普通だったから。



今は、社会に出て、嫁に出て、みんなにそう言われて他と比べる事ができたから、

あたしは雑だったんだ、と、顧みることができる。


本当にあのまま生きてきたら、物はたくさん壊れただろう、そして、あたしはたぶん

その原因に、一生気付かない。


たぶんお金の貯まらない人は、こういう、物の扱いが雑な人で、その原因が自分の

力加減にあると気付いてない人だ。だってすぐ壊れるから、すぐ買う。



でも、決して、雑に扱おうとしていたわけではない。

あたしなりに、いつも最新の注意を払って、物を扱ってたんだよ。

丁寧に大切に扱ってるつもりだったんだ。


あたしは、物も、自分の体も、借り物だと、そうとう早い段階で気付いていたのに、

その、物の正しい扱いが、できてなかったんだ。

体の扱いも、同様だ。


せっかく、健康であることとは整体であること という言葉にたどりついたのに、

そこまで行く間に、自分の体の一部を失ってしまった。


たどり着くために失ったのか、失ったからたどり着けたのか、

それとも、ただの手遅れだったのか、

よくわからないんだけれど、

「借り物」だから、大事に扱うよ、最後まで。
posted by 辰多みか at 00:01 | 悟るまでの道 | 更新情報をチェックする

自分の物と思わないのが不幸にならない為のテクニック


物を、自分の所有物と思うから、それが無くなった時、

または欲しくても手に入らない時、不幸感にさいなまれるんだ。

だから、自分の体さえも、人生さえも、もちろん物質的に持ってる物も、

「借り物」と思えば、無くなっても、もとから無くても、

不幸だと、

感じなくて済む。


これは幸福を実践するための、

テクニック。

うん、ただの、how to。
posted by 辰多みか at 00:00 | 本当の幸い | 更新情報をチェックする

2013年01月06日

あたしのほんとうの気持ち


あたしは、やりたいことがあっても、

なぜかやれないことが多い。

ここの片づけを先にやってから〜とかー

そもそも主婦だから何日も泊まりは無理〜とかー

やってもいいよ、やりたいことはやればいいよ、とまわりから言われているのに。

(まあ周りも若干口だけということもあるけどね)


それは、主婦になったからじゃなくて、子供の頃からの

昔からで(昔はもっと自由にやれてた事の方が

多かったけど)、たまに、自分で自分ができなくなるように

コントロールしてるんじゃないか・・・と漠然と感じることもあって、

不思議で、辛くて、できないできないともがいていたけれど、

心の中を見て行ったらね、なんとまあ、思いもよらない理由に行きついた。

昨日気付いた事なんだけど。



それは、できないのを、まわりの環境のせいにして、自分を正当化してたっていうこと。

つまり、「あたしは悪くない」というのを、

思い切り味わいたいんだろう、ということだ。


できないのは、自分が置かれている条件が悪いから。

そう思って、条件を変えてみても、やっぱりできない。なぜかもっと違う理由を探してしまう。

やれるように努力するんじゃなくて、やれない理由探しに一生懸命みたいな。

そう、なんとなく感じてた。あたしは、「まわりが悪い、あたしは悪くない」と

言いたいだけなのだろう。

たぶん、昔(前世?)、あたしはものすごい悪者あつかいされたことがあるんだろう。

だから、この、平和な、なんでもない世界なのに、

常にあたしは、「あたしは悪くない」と言って戦ってるのだろう。

親にそう指摘されたことも多々あったし。

「みかはすぐ人のせいにする」

その頃は、言われても、そう言われる意味がわからなかったけれど、

たぶん、あたしの「本当の気持ち」が、心から漏れて、伝わってたんだな。

そうか、わかって、ちょっとすっきりした。

まわりの人には、だいぶ悪い事しちゃったね。



たぶんあたしは、「あたしは悪くない」を思い切り味わいたくて、

それが目的で、今生、この世に生まれてきたのだろうけど、

それに気付いちゃった今、どうする?

「「あたし」はもともと悪くないんだよ」て自分に言ってあげる?

それが気付きの先のステップなんだよね。
posted by 辰多みか at 00:00 | 悟後の修行 | 更新情報をチェックする

2013年01月04日

ブッダの言いたかった事


あたしは仏教を勉強してこなかったんで、

wikiやら検索やらで知った事。



ブッダ(釈迦)の言いたかった事は、

今、自分が生きているこの世界は、他のものの命を奪わないと、

自分が生きていけない世界だから、

はやく、悟りを開いて、

この殺生の世界へ二度と生まれ変わらないようにしなさいよ、てことだ。



大前提として、

「自分」は死んでも、何度もまた、この殺生の世界に生まれ変わるものであり

(前世、うまれかわりがあたりまえ)

この世界は、上の方から見下ろしてみて、レベル的にはあまり良くない世界ってこと。

そして悟りを開けば、この世にはもう生まれ変わらない。

(実際、悟りをちょっと開いただけではだめで、生きてるうちに魂のレベル上げを

しないといけないんだけど)




それであたしは、仏教は、宗教じゃなくて、哲学だと思う。


ブッダの言う事は、確かにとても大事だけど、

「ブッダ」そのもの(仏像)、またその言った言葉自体(経典)を、

あがめたてまつっても、それには何の意味もない。



自分が「悟」らなければ、何の意味もない。




ブッダは、たとえば、(ほんとうにたとえば)

「自転車に乗れるようになる方法」と「自転車に乗れたら、そのあとの気分や生活や自分はどう変わるか」

を、みんなに話して聞かせただけだ。


いくらhow to本を読んだところで、自転車に乗れるようになるわけではないし、

自転車に乗った気分を味わえるものではない。


本当に、乗らなくちゃ。



「旅行本」をいくら読んでも、そこに「行った」事には、

みじんも及ばない事と同じ。



それが悟るという事。
posted by 辰多みか at 00:02 | ひとつの神と八百万の神 | 更新情報をチェックする

イエスの言いたかった事


あたしは、キリスト教も勉強してこなかったんで、

さらにあまりwikiも検索もせず、

ただ、どこかで聞いて耳に残っていたフレーズが、ある日突然、

腑に落ちた日の事。



それは、

「隣人を愛しなさい」「愛こそがすべて」



何度も書いてるけど、

あたしはある日突然悟った。


それはレベル的には悟りとは言わず、気づきというのかもしれないけど、

「そういう」状態の中で、一瞬だけ、目を開けた事があるんだ。

まあ、その時、あたしは、車の後部座席で、湖面を見てたから

物質としての目はずっと開いてたわけなんだけど。



意識の中で目を覚ました。



いろいろな思いがやってきた。


自分の外側はみんな鏡 だとか

人はみんなそれぞれ神様 だとか

内面はそのまま意識の外面につながっている とか

人にも物にも、すべて神様が宿っている とか




そして、「隣人を愛しなさい」の意味が、腑に落ちたの。


隣人、つまり、敵に愛さえ送れば、自分は恐ろしい事から逃れられる、というような、

そんな感じでとらえていたけれど、そうではなかった。


これは、こうやって字面で見れば「そうではなかった、って、あたりまえじゃん」て

みんなわかっている事だろうけど、

本当の意味で愛を送っている人、実際の行動でできている人は

まったくといっていいほどいない(と思う。ていうか身近にあまりいない。)。



敵が「私」に向けてくる脅威をなくす目的に使う「愛」は、もちろん本当の愛ではなくて、

ただ愛に似た形をとっただけの、詐欺的な「愛」だ。「愛」とも呼べない。

だからそれは敵には伝わらず、伝わるのは、「相手を恐れている気持ち」と

「愛に似せた卑怯な手を使ってなんとかその場をおさめようとする気持ち」


その場面が、この世界に、なんと多いことか。


ほんの、小さな事だよ。

敵とは、「私」を殺すような、重大な事をしてくる人の事(だけ)ではない。

すぐそこにたくさんある、ほんのささいなこと。


そうして、その敵を変える事は、絶対にできない。

愛 でしか できない。



矛盾みたいに見えるけど。




相手を変える事は、愛でしかできないけど、

そもそも「愛」は、相手を変える事も望んでいない。


相手を変えようと思った瞬間、「愛」は「愛」でなくなる。




それが愛だ。



イエスが言ってるのはこのことなんだ。

それを、湾曲して自分の都合の良いように思い込んでいる人のなんと多いこと。

それは聖書を勉強しているという人たち(集団)でもそうだ。

(だってもらった冊子に湾曲した事が書いてあるんだもの)


そう思った。

みんなが本当の「愛」を持てば、この世界は本当に平和になるのに。


でもあたしも、本当の愛を持ち続けるのはむずかしい。


そう思った。



そのあと、なにかに取りつかれたように、

ネットで、「北風と太陽」を検索した。

あたしの心の旅がはじまったのは、その時からだ。

「北風と太陽」の、太陽は、愛 だ。



それがその時きづいたこと。

あたしが悟りと思ってること。
posted by 辰多みか at 00:01 | ひとつの神と八百万の神 | 更新情報をチェックする

降りてきた言葉


「変化には痛みを伴う」



おーー、そうだよ。言葉が降りてきた。

そうだ、これは真理だ。




あたしは、この正月、ついたちそうそう、

「実家で飼ってる猫が飼い主にお土産で捕ってきたモグラが死ぬのをたまたまスマホで撮った動画」

を、実家で見た。


動画の中で、実家のみんなは猫のお土産にわーわー言っていて、そのうちモグラの背中が

腰から頭の方へ何回か波打ったかと思うと、ぴたりと止まって動かなくなった。

またみんなはわーわー言っていた。そういう映像。

実家のにゃんこの愛溢れるお土産だけど、やはりなにか考えさせられるものがあった。

(ちなみに一週間に一回は鳥を捕ってくるらしい)
posted by 辰多みか at 00:00 | 「1」と「0.99999…」 | 更新情報をチェックする

2013年01月03日

人にものを説明する時


あたしは、モノは理解する。

けど、それを人にうまく説明できない。

たとえば、今、モノって言ってるけど、

それもたぶんおかしな表現で、

本当は、事柄(ことがら)とか、そういう事だ。


あたしにとっての、ことがらとか、モノの理解は、


たとえば、本当にたとえばで言うと、「モナリザの絵」を

頭の中で詳細に見ている、と同じ事で、

それを説明しろと言われても、的確に伝える事ができない。



目があって〜、ちょっと笑ってて〜



というのがあたしの「説明」だけど、それでモナリザってわかるか?

わかんないね。まず人か静物かの違いも説明できない。



あたしの説明は、常に、何に対してもそうだ。

だから、みんなあたしの説明はわけがわからないと言う。


あたしの親の予想では、将来は先生になると思ってたらしいが、

あたしは、全く、そんな気無かったから。

まず、あたしだけが理解してても、説明できないんだから、生徒が路頭に迷うよ。

posted by 辰多みか at 00:01 | 自分 | 更新情報をチェックする

ボルト・アンペア・ワットの説明


娘に、「ワットがわからん」と言われた。

まあ、わからんだろうね。あたしも学生時代は全くわからなかった。

まず、何回も書いてるけど、本当はマイナスから流れてる電気がプラスから

流れる設定になってるってのが許せない。


大人になってから、電気大好きのいい先生に出会って、ちょっとわかるようになったんだけど、

それでも、あたしもまだ電気嫌いだな。


でも、ワットくらいはわかるようになったので、

娘が「ワットって・・・電気の大きさ?」というので、

即座に「違うよ」と答えた。

「電気の量?」

「違うよ」

「じゃあ消費量?」

「あー、まあ、それにちょっと近いね。」


その時あたしの頭の中にあったのは、



大きな川で、

高低差が2000メートルくらいあって、

途中にダムがあって、




高低差が 単位・ボルト(V)の、電圧 E で、

川幅が  単位・アンペア(A)の、 電流 I で、

ダムが  単位・ワット(W)の、電力 W で

ダムはもういっこ 単位・オーム(Ω) の 抵抗 R だ。 



それを説明しようと思うんだけど、

いきなり、ワットはダムだよ、と言って、中学生が納得するだろうか。

それか、ダムより水車小屋の方が近いか、と頭の中でぐるぐるして、

あ、やっぱ、ワットは水車小屋だね、


と言ったら、余計混乱するだろうか。


というより、抵抗が、本当の水車小屋で、ワットは観念的なものだから、

川とか水車では説明できないかも。



と思って説明できなかった。

まず、あたしが電気を川に例えるのに納得してない部分があるからかもしれない。

だって、川は海に流れて、それでおしまいだもんね。

電気は回ってるんだよ。下流に行ったら、次はいきなり上流という。むーん。



だれかあたしのかわりに娘に説明して。

posted by 辰多みか at 00:00 | 電圧・電流・抵抗・愛 | 更新情報をチェックする
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