2013年01月22日

絶望の後でしか悟れないのか


あたしは、

落ちて

落ちて

落ちて



(この落ちてというのは、まあつまり、気分の事なんだけど)



外に、原因を探したけど、


よく、よくよく探したら、


それはもう、数年単位で、探したら、




実は、自分の中に原因があったという。




それに気がついた時に、



「気づき」があった。


気がついた時の気づき じゃなくて、気がついた後に、気づき。


(だから「悟り」と言った方が、混乱が無いかも)



自分の、中を、中を、中を、ずっとずっとずっと、奥深くにもぐっていったら、

「気づいた」

奥深く・もう出られないほど深い所は、実は、広大な外につながる、出口だったんだけど。






あたしは、自分の子供たちに、体の成長だけじゃなくて、

心、精神的に成長してほしいけれど、



ほんとうに、本当に、人間として成長するならば、

一度、「絶望」を味あわなければならない。



そうしないと、悟れないみたい。

そういうシステムみたい。





でもそれは、親として、困る。

あたしの立場や見栄が困るんじゃなくて、


子供たちを、そんな状況にさせたくない。

いやだ、という意味で、困る。



親としてのあたしは、いつも、それで悩むのだ。



親ライオンが、仔ライオンを崖から突き落とすとか、

可愛い子には旅をさせろとか、



昔の人は、わかってた人がいたんだね。本当に、本当に、真理だ。



だから、子供がなにをしていても、

命に別条なければ、ほっとけばいいのだ、たぶん。


それで、微笑んで、見てればいいのだ、たぶん。



子供が困って泣いてても、

自殺しちゃいそうな一歩手前まで行っても、



ただ、見ていて、そのままでいいよって、言わなくて心で思って、

その子の、いつでも帰ってこれる、安心できる場所を作っておいてあげさえすれば、いいんだ。

「そうすれば、子供は自分の期待どおりに、なってくれる…かも」とは絶対思わないで、

ただただ、ほっておけばいいんだ。



ただ、目は、離さないで。

なんの見返りも期待しないで、

笑顔で、見守って。


子供の命が無くなりそうになった時、はじめて手を伸ばすんだよ、子供に。

本当は、それさえも放っておいて、手も差し伸べない方がいいのかもしれないけど。




それが、親の理想型で、


一番、子供がしあわせで、

一番、親もしあわせで、

なんといっても、一番 楽。


と、思うんだけど、





いろいろなしがらみがあって、できない。


やっぱり、できないってことは、「あたしにとって都合が悪い」と、あたし自身が

反応するから、できないのだろう。



自分の事もできないのに、子供のことまでなんて、できない。

できないのが、世間一般の親なのだろう。




なんて、なんて、未熟だ。

世間も。あたしも。


posted by 辰多みか at 00:00 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする
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