2013年02月07日

神様の名前


神様は、


「神様」と呼ぶのが一番しっくりくるから、あたしは、そう呼んでいるのであって、


べつに、名前など、本当はどうでもいい。




あの宗教のあの神様 とか、神様といったらこれであろう、とか、

そんなふうに限定するものではなくて、


本当に、心の中に居る、「アレ」

みんなが感じる、同じ、「アレ」

の事であって、そもそも名前なんか無い。


一度、そう、たった一度、その「アレ」を経験してしまうと、

世の中の宗教の事が、いっぺんで、わかるようになる。



キリスト教も仏教もイスラム教も、そうそう日本の神道も、

みんな同じ「アレ」の事を言ってるって事が、いっぺんで、わかる。



聖書もお教も、勉強する必要なんてないんだ。

そこに真理が書いてあるかもなんて期待して、人生の時間をたくさん、

それに費やそうなんて、しなくていいんだ。


いっぺん「アレ」を経験しちゃうと、


聖書やお教の、どのページでも、パッと開いた部分が、わかるようになるよ。

「あぁ〜、なるほど」みたいな。



聖書やお教は、「悟る」という目的のためには何の役にも立たない、ってあたしは思ってるけど、

そうそう、見方を変えれば、役には立つかな。



それはね、「勉強しても何の役にも立たない」と、心の底から絶望できるって事と、

悟ったあとに、自分の体験が、本当に「悟り」体験だったのかを、確認できる事。


確認しなくても、「悟れば」おのずとわかるのだけど。

キリストやブッダと同じ境地に立てたことが、目で見て確認できること。

それが聖書やお教の役目かな。


心の底から絶望できるってところが、いいよね。

悟りへの近道は、絶望することだからね。

それは、読む事だけではなくて、体を使った苦行でも、同じだよ。

だよって、あたしは苦行はしてないけど、ブッダがそう言ってるから。

苦行や修行をいくらしたところで、「悟りたい」って思いながらやってたら、

絶対、ぜったい、ぜ〜ったい、悟れないよ。

だから、そこで絶望するわけなの。もういい、って思っちゃえばいいの。

絶望したフリしてもだめだよ。もう、本当に、心の底から絶望する。



そうすれば、悟りは、自分の中からやって来るの。

あたしもそうだったから。



posted by 辰多みか at 00:00 | ひとつの神と八百万の神 | 更新情報をチェックする
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