2013年04月30日

在る。ただ在る。


この間、4月27日の夜。

寝ようとふとんに入った。


あたしの心の中には、

表の顔と、

裏の顔と、

裏の顔とは、下心とか、そういうもの。


そして、その下には、

見ないようにふたをしていた、自分の本心があって、

さらにその下に、本当の自分が居る。


そう思って、順々に、心の階段をおりていった。



裏の顔の下に来たとき、


見たくない本心のフタはいつもは開かないけど、

その時は、ちょろっと、開いた。


あたしが言った。

表の顔のあたしが。

フタの中に向かって。


「あたしはそんなこと思わない。」

「あたしはそんなことやらない。」

「そういうことをやる人は軽蔑する。」

「それは悪い事だ。」



フタの中からは、声は聞こえなかった。


いつもはね、たぶん、なにかキッカケがあって、

突然フタが開くのだと思う。

フタで押し込められていた"あたし"が、

泣き叫びながら、フタを思いっきり飛ばす勢いで

開けて飛び出してきてたのだと思う。


でも、どうして"あたし"はそんな事をするのか、

表の顔のあたしも、フタの中のあたしも、

全然理解できてなかったんだ。


フタの中は、あいかわらず、静かだった。

たしかに、その中には、あたしが居るんだけど。


「悪い事だ。」

もう一度、表の顔のあたしが言った。


そういえば、"あたし"は、そのフタがある事さえ、

見ようとしなかった。

フタも、その中のあたしも、無いものとして、生活してきた。

無い物、というか、亡き者。



それが、ここ最近、フタがあってその中にあたしが居る、と、

実感するようになった。

ここ最近、というのは、2回、「できたよ!」って思った時。


「自分を愛するという事」は、このフタの中の自分を認める事だと、ネットで読んだ。

この自分にOKをあげることだと。

そして、それは正しいという事でも悪いという事でもないという事だと。

でも、できない。思い込めない。あたしにはできない。

そんな自分にOKをあげるなんて。

マルをあげるなんて。

どうすればそれができるの? そんなふうにあたしは悩んできた。


「悪い事だ。」

表の顔のあたしは言い続ける。


その時、突然、どこかで声がした。

フタの中からか、

表のあたしか、

わからないけど。



「ある。ある。」

「有る。」

「在る。」



フタの中のあたしは、


在る、ただ、在る。


それだけだった。

それがいかに悪かろうと、

どう考えても悪い、とあたしは一生判断し続ける感情なんだろうけど、


たしかに、「ある。」



そうだ、これは、神様の言ってた事と同じだ。





そう思った。

そう思ったら、眠ってしまった。


次の日、目覚めて、



「在る。ただ在る。」

そう思った。



認める、というのは、それでよし、ということではない。

日本語が難しいけど、

それで良し だと、意味が違う。

それで悪し でいいんだ、という事。


いいんだ、でも、意味が違う。

だから言葉で表せない。


良いとか悪いとか、判断なしで、「ある」と認めるんだ。


今まで、「無き物」「亡き者」として、見ないふりをしていたものを、

ただ、見る、だけでいいんだ。

"見ないふり"も、言葉が違うな。

見ないふり、ではなくて、自分自身は、「無い」と信じてるから、

そもそも「ある」とさえ思ってないんだ。


それはね、本当に苦痛を伴うよ。

人生に苦行があるのならば、これこそが、真の苦行だ。

だって、自分の中にあってはならないと信じていたものが、存在しているのを見る。

苦行と称して、いくら滝に打たれようと、断食しようと、

この「見ること」以上に、苦しい事は、たぶん無い。

死ぬことさえ、これよりは、苦しくないはずだ。


posted by 辰多みか at 23:00 | あたし神様だったわ | 更新情報をチェックする
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