2013年02月16日

朝起きてふとんの中で思ったことB鏡・共鳴・自由度


余談ばかりで、ちっとも書きたい事が書けない。


@Aは、はっきり言って、余談だ。あたしは毎朝起きたら、

「朝が来てありがとう」と思うって事と「光になれますように」って祈る、ということが@とAだった。

それで、とうとう、今朝、ふとんの中で思った事。


思うのは一瞬だったけど、書くのに、まあ時間がかかる事。


昨日の、神様は、円(球)で、自由がひとつ足りないな、と思ってたら、

なんで球かっていうと、それは、「見られてる」から、「球」なの。

それをふとんの中で思ったんだ〜。

量子論だね。


誰に見られてるか知らないけど、


あたしたち人間が、神様を知ろうと思って「見る」から、

(この場合の見るとは、頭の中で考えるという事だよ)

あたしたち人間に見られてるのかもしれないんだけど、



まあよくわかんないんだけど、とにかく見られてるから「球」なの。


神様の外側に何かあって、「それ」から見られてると仮定したら、、なんかちょっと怖いね。



見られてない時は、なにかっていうと、「波」なの。


「波」なんだけど、その中心には「重力」みたいな(あえて今は重力と特定しないよ)

力が存在してて、その力は、単に、「存在してる」だけなの。

そこにあるよ〜、というだけ。あと、力には大きさがあるんだよ。

でもその大きさは、形の大きさとしては、見えない。

見えない、けど、大きさを見ようと思えば、それは見えるようになる。

でも大きさ以外の他の情報が見えなくなる。

そういう感じ。

「力」がある場所と、他の場所との違いは、ただそういうことだけ。



「力」を見る目で見ると、「力」の存在だけが見えて、

まわりは、みんな波なの。

「見る目」というか、「力が見えるメガネ」かな。


で、力のまわりを見ようと思って、まわりのことに意識を向けると、


まわりが急に、「球体」になるの。

「力」の存在は見えなくなっちゃうの。

力の大きさは、この時、球体の大きさとして、目に見えるの。


うん、まわりが見えるメガネに掛け替えると、


まわりが球に見えて、「力」は見えないの。


ただ、どっちに焦点を合わせるか、だけなの。



あたしは、以前「この三次元世界に在って、二次元なるもの」を、探した事がある。

それは案外簡単に見つかった。

夜、犬の散歩に行った時。


自分の影が、地面をすべっていった。

あたしの歩くとおりに。


「あ、これが三次元中に存在する二次元だ」とすぐに理解した。

だって、影は、厚さが無い。

よ〜く、よく見て。よく考えて。ほら、厚さが無い。

でも「何か」が存在している。実際には、「存在してない」が存在してるのかもしれない。

この場合「存在してない」のは、「光」だ。

「存在してる」とすれば、それは、その名前は、「影」だ。


立体に光を当てて、影を作っても、

それは、どうやっても二次元になる。

三次元の影って、作れない、この三次元の世界では。


影の形はさまざまに変わるけど、

立体の形は変わらない。ただ位置する角度が変わるだけ。

だけど、影だけ見たら、元が同じものだなんて、想像できない。



二次元の世界で、影を作ったら、どうなるんだろう。


想像するのは難しくない。三次元の影は二次元になるのだから、

二次元の影は一次元になるのだ。ひとつ、次元が減るのだ。

二次元は平面だから、横から光を当てれば、それは一直線の、ただのいっぽんの黒い線だ。

それが二次元の影。


一次元の影は?

とても簡単だろう。一本の線の前か後から光を当てれば、それは、ただの点。0次元。



だから、四次元の影は、ひとつ次元が減って、三次元になるのだ。

四次元の世界に浮かんだ(?)、黒い立体が、影だ。

たとえば四次元の球体に光を当てて球体を動かせば、

その影は、黒い球の形をしていて、もとの球体の動きに合わせて、

大きくなったり小さくなったりするんだ。


あたしたちは、三次元に住んでいるから、四次元の球体の事が想像できない。

四次元の立方体の事は、なんとか、正確な形ではないにしろ、想像はできる。

四次元球体は、無理だ。あたしは無理だ。

できそうと思ったら、やってみて。きっと無理だよ。


四次元の球体の影の事だったら、さっき書いたみたいに、想像できる。


だから、ひとつ次元を落として考える、とか、なんとか工夫して、

高次元の事を考える事はできる。



あたしが今朝、ふとんの中で考えた事は、

「神様は見られてるから球で見られてない時は波だ」という事は、

もしかしたら三次元の事じゃないかもしれない。

実際は四次元以上で起こってる事象で、

あたしは、次元を落として、三次元的に考えてるのかもしれないんだ。



「三次元中に存在する二次元」て、影の他にもうひとつあって、

それは、鏡に映ったモノだよ。

鏡を横からみてごらん。

映った像には、厚さが無いよ。

でも、「何か」が存在している。

鏡は、影とは全く逆で、

「存在してる」のは、「光」だ。

(だってまっくらやみだといくら鏡があっても何も映らないよ)



人の心の中には、

他人と共感する、共鳴する部分があって、

それは人によって、違って、

(人は共鳴する部分を「全部」持っているんだけど、意識した共鳴装置しか発動しないの。)


ひとりの人の思いが、別の人に響きあう、

それは、「嫌な思い」の方が、響きやすいんだけど、


「嫌な思い」を反射して「嫌な思い」で世界を作る。


(ああ、これはとても誤解をよぶ書き方だ。「嫌な思い」には「正誤が無い」事を但し書きしておかないと!

もちろん「良い思い」にも「正誤が無い」。「嫌」だから悪くて「良い」から正しいというわけでは、決して無い)


ある人には「嫌な思い」だけど、またある人には、まったく影響しない場合もある。

そうやって響き合って、世界を、人は「自分だけの、自分の目に見える世界」を作っていくんだけど、


響くということは、影響 しているんでしょう?

影についていえば、先に言ったとおり、光が当たって影ができる。三次元の姿を映しているのに、その影は二次元だ。

では、音が響くとは、どういう事だろう。

音は波だけど。

音は反射すると、次元がひとつ減るのだろうか?


人が響きあうというのは、次元がひとつ減るのだろうか?


あたしは、減る と思ってる。


自分の目に見える世界は三次元なので、

響き合ってる「世界」は、三次元なので、


「自分」は「四次元」に居るの。


それがあたしの結論なの。

これは「神様を見た」時から思ってる事なの。
(今朝ふとんの中で思ったことじゃなくて)


だから、波が球になるということは、

次元がひとつ減って、n-1次元になるって事で、


それは、「見られている」という事のせいでひとつ減る。

「見られている」というのは、影ができるか鏡に映す事。

n-1は自由度とも思うから、「見られている」事で自由がひとつなくなるという事だよね。

だって、じっと見られてたら、本当に「自由」じゃないよ。ほっとけ!って叫びたくなるよ。

ああ、n-1が自由度がひとつ減るというのは、「不偏標準偏差」から持ってきたあたしの考えだよ。

不偏標準偏差=エクセル関数の、STDEV



球を求める微分式を見ればわかるけど、n-1 が出てくるんだ。

あたしは計算しない数学者を自負してるから(計算しない、じゃなくて、記号が意味わかんなくて、

できない。高校の時のも、全部忘れてる)

自分では微分しないで、ただ式を見ただけなんだけど、そうみたいなんだ。

そのへんが、カギだと思うんだ。



ブッダって、

哲学者であり、数学者であり、物理学者だったんだろうと、あたしは思うんだけど、

いつも、瞑想しながら、


こんなこと、あたしみたいなこと、考えてたんだろうな〜。

あたしは、そんな、ブッダの考えを書きのこしたものとか(平たく言うとお経だ)

過去の偉大なる数学者の書きのこしたものとか読んで、こういう思いに至れるんだけど、

ブッダと同じくらい昔の人で、まあ、ユークリッドとかもそうだし、ピタゴラスとかね、

過去に前例がないことを考えられて、すごいなって思うよ。


ほら、ものすごく長くなって、時間がかかったよ。

まだ、あたしが、朝ふとんで思った事の、半分しか書いてないよ・・・

ここまで書くのに、4時間くらいかかってるのに・・・

ふとんの中では、ほんの、数分の事だったのに。


誰か、あたしの頭の中を、映しだす装置を開発してくれたらいいなぁ。

そうしたらこんな苦労しなくてすむよ。




posted by 辰多みか at 00:02 | 数の世界の神様 | 更新情報をチェックする
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