2013年04月23日

神様の名前・かみさまは体感できる


かみさま は。


名前を付けたとたん、


真のかみさま ではなくなってしまうのだ。



なんでかというと、

その名前に、縛られてしまうから。


あたしの理屈でいうと、名前が付いた事で、神様の自由度がひとつ減ってしまうから。


(だってかみさまなんだから、どんな名前だっていいじゃん!!

どんな名前もつけられなきゃ、神さまじゃ、ないでしょ)

だから、じつは、「かみさま」という"名前"も、ほんとうはダメなんだ〜〜!



具体的にいうと、


かみさまは、水 みたいな状態だとする。あくまで、たとえね。

かみさまは、H2O(エッチツーオー) だとする。


すると、かみさまに、「水」って名前をつけた場合、

かみさまを体感(いわゆる「悟り」)できた人は、わかるけど、

まだ体感できてない人は、「水」以外は、かみさまじゃないって思っちゃう。

「お湯」はかみさまじゃない、と思うし、

「水蒸気」もかみさまじゃない、と思っちゃう。

「氷」も。



かみさまを体感できた人は、かみさまは「水」って名前だけど、

実体は、「エッチツーオー」なんだな、と、わかるよ。

だから「お湯」も「水蒸気」も「氷」も、神様。



今度はたとえば、かみさまは、「つめたい水」という名前だとする。

この場合、神様を体感した人は、実際に、かみさまはつめたい水の状態だけである、と感じたということ。

神様って、目に見えるんじゃなくて、体感(感じる)ものだから、

感覚の方がより近い感じもする。



この場合は、さっきとは違って、「つめたい水」が神様なんだから、

「お湯」と「氷」は神様じゃないよ。

まぎらわしいけど、あくまで、たとえね。


つめたい水に手を入れて、どこまでつめたいと思うかは、人それぞれだよね。

同じ水をさわっていても、つめたいと思うか、ぬるいと思うか、

生まれ育った環境でも違うよね。


だから、かみさまを体感してない人には、どれが「つめたい水」の温度か、わからない。

一度でもかみさまを体感(悟り)していれば、「つめたい水」の温度は、体が覚えているんだよ。

それで、悟った人は、神様が、どんな名前でよばれてても、

全部同じことをいってるんだな、とわかるけれど、そうでない人は、

わからない、という状況がでてきてしまうの。


わからない人たちが無理して理解しようとした「つめたい水」がひとり歩きしてしまうの。

みんながみんなの解釈をしてしまうんだよ。

真理(ほんとうの温度)は、ひとつなのにね。

それは、キリスト教とイスラム教のかみさまが、実はおなじものなんだ、とわかるようになるか、

一生わからないでいて、お互いの神さまは別物で自分の方が優れていると主張して、

宗教対立するかどちらか、という事と同じこと。



たしか聖書だったか、かみさまには名前がなかったんじゃないかな??



かみさまは、なまえがないのが本当だけど、あえて名乗ろうとすれば、


「在る」


「私は、『在る』」


だったでしょ。


あたしは、それが、本当に正解だと思うんだ〜。「在る」という意味も含めて。


posted by 辰多みか at 23:02 | ひとつの神と八百万の神 | 更新情報をチェックする
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