2013年04月27日

見極めは矛盾してるかしてないか


「愛」の反対は「恐れ」で


真理による行動が愛で、そうでないものが恐れ。


どちらかを見極めるには、


まあ、見極めなくても、恐れからくる行動だなって、その事象からもう

ぷんぷん臭って来る事の方が多いけど。



行動・言動に矛盾や嘘が入ってるものが、「恐れ」だよ。


なぜ「恐れ」に矛盾が入っている(ように見える)かというと、

実は、「真理」の方こそが、"一見"矛盾しているように見えるからだよ。


「真理」は、(真理は、イコール神様だよね。真理=神様)

下が上で、中が外なの。

ひとりが全員で、

白が黒で、

光が闇なんだよ。

だから、それに照らし合わせると、「恐れ」の方が、矛盾しているように見えるんだよね。

うまくできてるよね。

↑このへんは、いくら言葉で、文字で説明しても、伝わらない。

いちど「悟り」(気づき)をしてもらわないと、絶対に共有できない感覚だから。

だってお釈迦様やキリスト様が、2000年以上も前から言ってるのに、

いまだにみんなわからないでしょう…。




たとえば、ある人の場合。

「病気になって困っている」はずなのに、

やたらと病気アピールしてきて、出血したのに、ニコニコ笑ってみせてくる時。

お医者さんから、「それはただの老化」と言われて、まわりのみんなは、大病じゃなくて

よかったね、と言いたいのに、本人は全然喜んでない場合。むしろ病気と言われなくて

ショックがかくしきれない場合。


その時の、「ある人の心の中」を、

あたしはこう感じるんだ。

まず、なぜ"そう"感じるかというと、あたし自身、同じ経験があるからだ。


どう感じるかというと、

まず、その「ある人」が常に思っている事は、どんな人に対しても

年下であれば、

「こどもだから、年が若いから、『できないにきまっている』」

まあ、自分より年が下ということは、経験年数が少ないから、できない と

思っちゃうのは、ある程度わかることだけどね、言われてるこっちは理解はしたくないよね。

しかも、この「ある人」は、常にこれを言葉にも出しているんだよ。

「ある人」だとわかりづらいから、仮にAさんとしよう。


そして、その『できないにきまっている』が、Aさんの、すべての

行動の動機のベース(基礎)なんだ。

まあ、すべてというと語弊があるかな。1か100かじゃないよ!といわれそうで。



その動機は、相手に対する「愛」じゃないんだ。

『できないにきまっている』というのは、相手を信頼していないって宣言してると同じ事だよ。

そして、その心の中は、じわじわ外ににじみでてくるから、まわりの人もなんとなくわかっちゃう。


Aさんが勝手にきめつけた、『できない』相手を、フォローするつもりで、

Aさんはなんでも先まわりしてやってしまう。

そしてそれは「いい事」だと思っている。

やっていいことと思うばかりか、感謝されて当然とまで思っている。

そして、フォローした分、フォローし返してもらって当然と思っている。


だって相手は、『できない』んだもの。

あたしは、これをやられた。(あたし以外のみんなもやられてるんだけどね。受け取り側の

許容量の違いだ。あたしは許容量が少ないよ。)


一番にあたしの自我が心の中で叫んだことは、

「親切のふりを押しつけるな! あたしをバカにするな!」だった。

それは、いまでも変わらない。

でもね、あたしは変わろうと思ったんだ。それはね、とても長くなるから、

あとで数カ月かけて書くよ。だから別の話ね。


Aさんも、

当然人間だから、万能じゃないんだ。「できない事」もあるのだ。

そんな事、どう考えてもあたりまえなんだけれど。

「これはできない」と、口に出して言う事もあるのだが、

それは自分をカモフラージュするため、あえてそう言う。


Aさんは、本当に「できない自分」に理由をつけるため、

病気になっていった。

病気というか、調子が悪い。

病院に行って、いくら検査しても、「命がどうとかいう病気ではない。

老化の一種」といわれる。

そして、先生から心配ないと言われても、全然嬉しそうじゃない。

また、病気をさがす。

「目」だったり「足先」だったり、

なぜあたしが、「おかしい」とか、矛盾に感じるのか、それは、

言いだすタイミングが常に変だからだ。

一週間に一回会う、いつもの主治医ではなくて、はじめて会った当直医に、

「3カ月前から気になっていた」自分の別症状を話す。

おいおい、そういうことは、主治医に話せよ。

まるで自分の思い通りの事を言ってくれる先生に出会うまで、

永遠にさすらうかのようだ。

(だって、この時で、5人目の先生だよ。

そしてこの先生も"思い通りの事"は言ってくれなかった。)



なんどもなんども、自分の症状・薬について、書いてまとめたいから

あたしに、一緒に薬手帳を見てほしいと言う。

それは、このあいだやったばかりだから。

あたしに病気をみせるためにやっているとしか思えない。

本当に治る気があるの?

こうすればいいよ、とアドバイスしても、それから逃げようという姿勢しか見えない。



いろんな事をまのあたりにして、常にあたしが感じるのは、

あたしが中学生の頃、部活が嫌で不登校になった時の事だ。


あたしは友達にさそわれて、一番苦手な運動部に入ってしまったのだ。

なんとなく中学生になったら体が大きくなって、運動もできるように

なるかもしれないと錯覚してしまったのだ。

あと、違う小学校から来てはじめて友達になった子に気を使ってたのがすごく大きいんだ。

そう、あたしは、いい人と思われたかったんだ。断って嫌われたくなかったんだ。


だけど、運動部はきつかった。

だんだん足が遠のいてしまった。

部活をやらず、隠れるように帰って一週間ほどたったころ、

先生と部員全員に呼び出された。あたりまえだ。


あたしは、なんとか部活をやらない理由をひねりだした。

冷や汗がだらだら出て、自分は悪くないけど、やりたい気持ちがあるけど

体の調子が悪い、と言ってしまった。

あたしはその時、せきばらいをしていたみたいだ。

全然意識してなかったけど。


先輩のひとりが言った。

「ただやりたくないだけなのに、わざとせきばらいをしないで」

あたしは思いがけない事を言われて、ショックだった。

まわりのみんなは、お見通しだったのにね。


ついでにいうと、あたしは小学校のころから何年も、耳鼻科の病院に通っていて、

その理由は、鼻のつまりとせきばらいだったんだ。

原因はわからず、精神的なものかもしれないと。

ただ本当に鼻とのどに違和感があるんだよ。それは誓って本当だ。

今も治ってないし、今思うと、チックかな、と思うけど。


あたしは、がんばって毎日部活に行きます、とみんなの前で誓った。

けれど、その次の日、やっぱり行けなかった。

そしてその次の日の朝、体の調子が悪くなりますようにと祈った。

ちょっと頭が痛い気がした。熱を測ってみた。いつもより念入りに。

そうしたら、37度を超えていた。


あたしは、ものすごくほっとした。


堂々と、学校を休んだ。



次の日も、37度を超えていた。

風邪をひいていたわけではない。


そんなこんなで、一週間休んだ。

でも、逃げ切れなかった。


本当に体の調子が悪いのだから、あたしは悪くない。

そう思って学校に行ったのだけど、先生は見逃さなかった。

問い詰められて、あたしは部活をやめた。

先生と部員たちは、あたしを軽蔑した目で見ていた。友達も。


でも、二度と関わらないから、とあたしは、自分を正当化して、守った。

けど、あたしは、自分は悪くないと正当化するために、病気を使った、と、気付いていた。

それがあたしのその後の行動・思考のベースになった。

みんなには、とても迷惑をかけたけど、


あたしは、その経験は宝だと思っている。

本当に悪かったしつらかったけど。



Aさんを見ていると、それを思い出す。

病気が治ると、『できない自分』を正当化する理由がなくなってしまう。

病気があってこそはじめて正当化できるんだ。

つまり、『自分は悪くない』んだ。

だから、絶対に病気を手放さない。


病気を治したいといいながら、主治医の指示にも従わない。

だって従ったら治っちゃうもん。

正確には、治る病気ではないので(老化だから)、不快な症状が緩和

されるという意味。


この間、Aさんから「主治医の指示には、体が悪いからできないと言いたいから、

あなたから先生に言って」という趣旨の事をとても遠まわしに言われ、

あたしは、ものすごく理不尽に思いながらも、その願いをかなえてやった。

ちゃんと、言うセリフも確認してから。


だってあたしは、Aさんの言う事は絶対聞かないといけない、年下の若輩者 だからだ。


あたしは先生にこう言った。事前にAさんに確認とってあったセリフだ。

「先生に、なるべく歩くようにとアドバイスいただきましたが、本人は、頭がふらふらするので

できないと言うんです。もし他にできる事がありましたら…」

先生はあたしが言い終わらずに、

「できるよ!」と一蹴した。

「Aさん、できるよ! 問題ないよ。やらないとだめだよ」


Aさんが先生を見つめているその目は、だんだんと、涙目になっていった。

赤らんだ目で口をぽかんとあけたまま、固まって動けなくなっていた。



あたしは、はやく気づかないかな〜と、いつも思って見ているんだ。


だって、はやく真理にきがつかないと、また生まれ変わってしまうよ。

この苦行の世に。

まあ、本人がそうしたいんなら、そうすればいいんだけどね。

一度、Aさんと、真剣に話しあった時に「あなたはまだ眠っている」とつい言ってしまった。

そんなこと言ったって、人というのは、目覚めた時に、はじめて

「あ、自分は眠ってた」と気がつくわけで、

寝てる人にそんなこと言っても、理解できないよね〜。

と、自分でもわかっていながら、つい言ってしまった。



それで、あたしはそんなAさんを苦々しく思ってたわけだけど、

(『できないにきまってる』と常にあたしを否定しにかかってると感じてたから)

Aさんは、自分を正当化するために、一生、病気が治らないんだ。とあたしは気がついた。

それだったら、あたしの復讐は、もう済んでいる。

だって、Aさんは、一生しあわせになれない。

これが前回書いた呪いの正体で、

呪いとは、自分が自分にかけているんだよ。のろってしばる。まさに呪縛だ。

他人が他人にかけるんじゃない。自分が自分にかけるの。



自分が病気を招いているということに気がつかなければ、Aさんは一生幸せにならない。

Aさんが幸せになるためにやらなければいけないことは、

「自分は病気でできないから、それを認めて」、と、まわりに訴えることではなく、


「病気ではなくても『できない自分』がいるんだ」、と、自分で自分を認める事であって、

さらに、『できないにきまってる』からだめ と、押し込んだ、自分自身に、

いいよ、と言ってあげる事なんだ。

(本当は、「いいよ」というのは、語弊なんだけど、

そのものズバリの言葉が無いからこう書くしかない。)



だって、人間は理由があって、過去に自分自身を押しこんだ経験を持つんだけど、

その「自分自身」は確かに存在してるわけで、いつもいつも

「ここにいるんだよ、認めて。」と、


泣きながら叫んでいるんだから。



posted by 辰多みか at 23:00 | 呪いの正体 | 更新情報をチェックする
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