2013年05月13日

すべては幻だけれど事象は存在する。


事象。

ものごと。

起きるものは、起きる。


それについて、自分がどう感じるか、というトコロが、「幻」。

だから、自分が「嫌」と感じてる事について、

「幻だから、」

と考える所までは、良い。

だって、自分にとっては嫌かもしれないけど、

よその人では、そんなこと気にも留めない人とか確かにいるからね。

だから、感じてしまうのは、あくまで「自分の問題」だ。



で、次に続くところが肝心。


「…我慢する。」

それは、ダメ。



「…なかったことにする。」

それもダメ。




なんでダメかというと、「自分」はそれで心の安定を得られるのかもしれないけど、

ずっとそうし続けていると、ついには苦しくなって、動けなくなってしまうから。


あたしがそうだったから。


「苦しい」というのは、神様が「ソレ間違ってるよ」と教えてくれているの。



すべては幻なんだけど、

事象は確かに存在する。


たとえば、

「音がする」


「風がふく」


そんなレベル。




あたしはこの家に嫁に来て


嫁だから言われたことには、従わなくてはと、


ものすご〜く、無理してきた。


「言われたこと」を窮屈だ、せまい、不自由だ、と感じてきた。

その感情は、「幻」なんだけど(去年ハッキリ気がついたよ)、

事象は、確かに、有る。


「言われる」という事


「音がする」という事。

それは、幻ではない。


だから、「少し音を立てる頻度が多いよ」と言うことにした。


言わずに我慢して、我慢の当然のご褒美として相手を呪うことができて、

(そして、気がつかないうちにそれは相手を呪う事じゃなくて

自分自身だけを呪うことになる)、心の安定を「相手から」もらってる

状態が、それまでのあたしだった。



でも、そうじゃないんだ。

表の顔の「あたし」は、

あたしが意識できる「あたし」は、

相手を呪おうなんて、思ってもみなくて、

気付いた時、どひゃーっ!!ってなった…



一番最初の、どひゃーの時、あまりにびっくりして、悟っちゃった。



だからね、

「音をたてないで、とはいわないけど、もう少し回数を減らして」と

いおうと思ったんだ。



もうちょっとわかりやすくいうと、


等間隔のイスがあって(コンサート会場とかの)

うんと太った人が隣にいて、

その人は座ってるんだけど、おしりのお肉があたしのほうまではみだしてきてるんだ。

そこで、「申し訳ないけど、せまいです。」と、あたしは言ってもいいと思うの。


だって、その人が太ってるのは、その人に超責任がある事で、

その人はそのことを自覚しなくちゃいけないと思うよ。

なんなら、2人分のチケットを買わなきゃいけないと思うよ。


それが存在する「事象」で、

感情は、幻だけど、

事象は、たしかに有る。



だから、この世は、

事象が事象をよぶ流動的な、うん、たぶん永遠に動いている、

そう、無常な「確かに在る」世界で、

それについてどう感じるかは、個人個人によって違うから、

一人ひとりの目に映るのは、感情を映しだした幻なんだ。

たぶん「自分にとって不都合」な事は、たとえ目に映ってても、脳の認識まで行かないよ(笑)



あたしは、「愛が足りない」と感じるのも、

「愛の風」がふいて、(愛のエネルギーが循環して)

それを受け止める面積の違いが、あたしたちの愛の容量の認識の差なんだと思うよ。


「愛の海」でもいいか。


愛にどっぷりつかってるけど、

海に沈んでる容器の大きさが違うんだな〜。


すべては愛なんだけど、

当る面積や体積が違うんだよな〜。たぶん。


それで、愛の風がふかないと、この世の事象は起こらないんだよ。たぶん。

愛の波 でもいいか。

愛の波動 でもいいか。

まあ、たとえだから。


みんな、いろんな「たとえ」で言ってるから、ややこしいよね〜。


posted by 辰多みか at 23:01 | ひとつの神と八百万の神 | 更新情報をチェックする
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