2013年05月14日

善悪を知る(知りえないのが本当だけど)実を食べたばかりに


人は、


ありのままでいいといわれて、

本当に、その言葉どおり、


ありのままでいる人って、

悟った人以外いないと思うよ。


悟った人だって、あたしみたいにレベルが低かったら、

ありのままでなんかいられないから。


そうとう、難しいと思うよ。


ありのまま、というのは、生まれおちたそのままという意味。

外見が裸という意味じゃないけど、まあ、裸、という意味。


文字で表すのって難しいね。



人間は、裸の心で生まれて、

成長して、いろんな人間関係を経ていくうちに、

モノの善悪を知る。

その善悪ったって、その時代や国でも変わるものなんだけど、

まあ、モラルとか、法律とかかなー。


嫌な事をすると、人に嫌われるとか、そんな事だね。



それで、その裸の心は、これではいけないと、「自我」をまとうようになる。


その「これではいけない」も、人によって、全然違うのだ。


つまり、人類共通の善悪って、本当は無いんだ。




本当は、裸の心が、自我で、

その中に、本当の自分=神様=愛 がいるわけなんだけど、

今日の話は、神様のところまでは行かない。


「自我」は「自我」の都合の良いように、自分の見た目も、自分が「心」と思ってる、

精神の浅い部分までも、支配するのだ。



みんな、そんな状態の自分を「ありのまま」と錯覚してる。

「自我」ががんばってる表面を見て、「ありのまま」と思ってる。


そうじゃないんだよ!!



だから、「あなたはその、ありのままのあなたでいい」と言われて、

ねじれにねじれた自分の姿を見て、「いい」と思い込むのかもしれないけど、


本当に「いい」と言われているのは、

生まれたままの、裸の心の自分だ。



アダムとイブが

知恵の実、

善悪を知る実を食べて、

裸でいるのに気付いて恥ずかしくなってはっぱで隠した、といういいつたえは、

「自我」の芽生えのことをいってるんだよ、たぶん。


ほんとうは、裸のままで、なにも問題ないのに…

人と違うところを隠そう隠そうとする。

自分が善悪と信じてしまったモノ。



不完全な自分を、悪と感じる事。


それこそが、人類の罪じゃないかと思うの。



そして、人生経験を経て、

「自我」で自分自身をごまかして、守ってきて、

苦しくなって、

もう、ごまかしきれなくなった時、


人は、本当の、「ありのままの自分」を見なくちゃいけないようになるんだと思うの。



「見る」時、

苦しくて、痛くて、怖くて、爆発したり、灼熱だったり極寒だったり、

死ぬほうが楽、と感じちゃうかもしれない。


「見よう」とするだけで、そういう反応が起こるから、

人は、それ以上見ないように、もっともっとごまかすかもしれない。


でも、苦しみから本当に解放されるには、

「ありのままの自分」を見なくちゃいけないのだ。

「不完全な自分」を見なくちゃいけないのだ。


だって、居ないことにされている、「不完全」な自分は、

自分の中で、泣いているよ。

「見て! 見て! 認めて! 気が付いて!」って聞こえない声で叫んでいる。



その自分を見た時、

見れた時、

「悟り」が来るの。

あたし、来ちゃったから。



だから、ありのままの自分でいい、と、真に気づいている人は、

悟ってる人だと思うの。


posted by 辰多みか at 23:01 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする
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