2013年07月11日

悟り後の修行


あたしは、気づきがあって、悟って、

人生終わるまでに到達すべき、ゴールを、見てしまった。

うん、神様に見せてもらった。

別のたとえでいうと、

宿題の答えを、全部見てしまった。


富士登山でいうと、霧が晴れて、山頂が見えたのに、あたしは3合目にいることが

わかってしまった。


そう、ゴールは見えたけど、そこまでが、遠く果てしない。

宿題の答えは見たけど、その宿題の山が、うず高く積みあがっている。


それが、悟った時の、あたしだったんだ。

至高・至福感は無かった。

ただ、気づいた時、心にとても大きな穴があいてる事がわかって、

悟りのレベルだと、一番下だということがわかって、

そして、「答えはわかるのに、どうやったらいいかわからない。

頭ではわかるのに、心がついていかない。」状態だったの。

それが5年前なの。



そうだ、あたしは、ズタズタだったんだ。

誰かにやられたワケではなく、自分自身の手にかかって、ズタズタだったんだ。

それが、わかるんだけど、

あたしは、どうしても気がすまなかった。

"周り"に。


ちゃんと自分の心に向き合う、という課題が、

何度も、何度も、何度も、目の前に出される。

"周り"が、自分の心の中の投影だと、身にしみてわかったのに、

どちらが幻想だったのかわからなくなってくる。



そののち、いろんな覚者の書いている事を見て、

「言ってもいい」ということは、わかった。

それが「自分を大切にする」ということのひとつだと。


「やめてほしい」

「やってほしい」

「やりたい」

「やりたくない」

でもまだあたしは、それを「言ってもいい」が信じられなくて、

「言う事が出来る」と交換できるチケットを探しているの。

「言う事が出来る」権利を探しているの。

それを探している自分に気が付くたび、「あっ」と思って、

思いなおすのだけど。


「言ってもいい」のは、

"自分の素直な思い"で、

それを相手にやってもらうって事ではないの。

"相手の思い"は、そこに在っていいんだよ。

つまり両方存在できるの。


だけど、あたしはそれが信じられない。

仕組みとしては、たしかにそうだと頭ではわかっているけど、

足がつかないプールで浮輪を手放す時のように、

"保障がない"

信じられる体感がない。

だってあたしはカースト制の一番下にいるの。

これは卑下で言ってることではないよ。

まずこの制度からくずさないといけないんだから(と思ってしまう)。


そうもしあなたが、

新入社員で。

相手が、

部長の時。


そんな感じ。


すこしずつ進んでいるんだ。

最近、進みますように、と意識してないから、進まないのかもしれない。

ブレーキをかけている自分が、見える。



悟り後の修行という時期だと思うの、今。

言いたい事がいっぱい出てきてたまらない時期は済んだ。

今、あまり"怒り"が起きない毎日なの。

それはそれでいいんだけど、まだまだ先があるとわかってるの。


修行…いつまでしようか。

人生、もうあんまりたくさんはない年ごろだからね。

はやくしないとね。

うーん? 人生は死ぬまで修行なのかしら。

でも"あたし"は悟ったあの時いっかい死んだわ。


posted by 辰多みか at 23:02 | 悟後の修行 | 更新情報をチェックする
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