2014年02月21日

悟りの世界をかいま見る前後の道のり

悟りの世界をかいま見る。
一瞥する。
人によって、言葉の定義がちょっと違うみたいだけど、
たぶん、一瞥した者どおしならばわかる。
見性。覚醒。目覚め。気づき。悟り。とか。いろいろ。
(この中で、覚醒、悟り は別の意味で使ってる事が多いかもしれない)
忘れもしない、衝撃的な、あの体験。

こころは、3層あって、
上の2層は、それぞれ、表と裏がある。
3層目は、もはや層でもなくて、言葉で表せない領域。
こころの層の上に、肉体の層がある。
肉体の層も表と裏にわかれていて、
それぞれ交感神経と副交感神経がつかさどっている。

悟りの世界をかいま見るまでに、
こころの層、1層目、2層目を、見る事になる。
なぜそこを見ることになるのか。
それは、「いろいろな事が思うようにいかなくなって苦しくなるから。」
苦しくない人は、こころを顧みる事は、ない。
そういう人は、もうすでに、風のように颯爽と生きているからだ。
苦しくなる理由は、自分ではわからない。
もがき続ける。
自分で「良い」と判断した方法で、苦しみをなくそうとがんばる。
けれど、だいたいは失敗する。
がんばりが、逆方向だからだ。
こころの層を見たくないから、
見なくても良い方向にがんばる。

その辺で、病気になる人がいる。
結構な確率で、いるよ。
ていうか、もしかしたら全員そうかも。
体の病気も、
心の病気も。
体の病気は、心の歪みが噴出しているので、
結局は、どちらも、心の病気だ。
偶然のケガや、盛られた薬物による体の変形でなければ。
(故意のケガは、心の病気だよ。)

病気になると、
がんばれない。
がんばれないのに、がんばる人がいる。
それほどまでに、自分自身のこころを見たくない。
だいたいこの辺で、
気づきをもたらしてくれる、良いカウンセラーさんか、
セミナーやワークに行く人もいる。
第三者の力を借りるのはいい事だと思う。
ただし、見極めが必要で、
見極めるためには、悟りの世界を見ないとできないから、
結局は、最初は運や評判に頼るしかなくなる。
お金もそれなりにかかるし。
ちなみに、精神科医さんは、悟りの世界を見た事が
ある人を選ばないと、絶対だめだと思う。
そういう先生はあんまり居ない感じがする。
森田療法ができる先生だったら、良いのかもと思う。
幸運にも、悟りの世界を見た事があるカウンセラーさんに
出会えれば、その先は、少し近道ができるかもしれない。

誰の力も借りず、
ひとりで、
がんばれなくなった人は、
「死」を、
選ぶ時がある。
「自死」は、「逃げの最終形態」だ。
それほどまでに、自分のこころを見たくない。
どれだけ逃げるの。
自分から。
それ自分でしょ。
もっとよく見てあげなよ。
・・・
「自死」も諦めた時、
なにかのきっかけで、
自分の人生のフィルム上映会が始まる。
見たくないのに。
こころの1層目。
こころの2層目。
1層目と2層目の間に、汚れ。
それが、ふと、考え事をするように、頭の中に、
映し出されていく。
それは、一気には来ず、
だんだん、じりじり、深い所まで思い出すように、
記憶が鮮明に映し出されて来る。
体感を伴って。
匂いや痛さや冷たさも。
それは病気になった最初の頃も、そんな感じだったかもしれない。
いろいろ思い出す。
ずーっと考えてる。
嫌になる。
嫌になるよね。病気も治らないし、
気分も暗くて重い。
するとまた何かのきっかけで、
「とても酷かった私」の記憶を思い出す時が来る。
このきっかけは、人によりさまざまで、
まったくの偶然で、
願って叶うものではなくて、
だから、みんながみんな、きっかけのチャンスにありつけるわけではない。
今生きている間に、こない人もいるし、
20代でも来る人もいるし、いろいろ。
「とても酷かった私」は、こころの、2層目に居る。
ここに到達しだすと、あとは、自力で、3層目まで、
落ちる。

落ちる。

ここで耐えられなくてまた「自死」を選ぼうと考えると、
もとのもくあみだから、もうちょっと我慢して。
案外、スピードが早くて、あっけなく落ちる。
落ちてると思ったら、実は天に昇ってた事が、わかる。
そこまで行けたら、しめたものだ。

こういう体験談を、神秘体験への憧れの目で読んで、
落ちる時の「苦」無しに、天に昇ろうかと、
無意識で考えてると、「ニセモノ」の光や声を、
見たり聞いたりする事がある。
それは、神の声じゃなくて、自分自身の声だからね。
騙されないで。
本当の体験は、「決まった形をした光」なんか見ない。
ただ、明るい感じがするだけ。
丸い光が体に入ってきた、とか、まばゆい光が全身を包んだとか、ない。
それは比喩だから。
今まで暗かったから、明るく感じるだけ。
今まで曇ってたから、はっきり見えるだけ。
ただ、言葉で表すと、どうしてもたとえでしか表せないので、
各々、違った表現で表す。
感じるのは、たぶん皆一緒だけど、表現の仕方が皆違う。
もしもあたしがこれから先「光につつまれた」とか書いてるとしたら、
それは「比喩」なだけだからね。
わかる人にだけわかる比喩なだけ。
だから、お互い、悟りの世界を見た人たちどおしでしか、
絶対に理解しあえないの。
形にこだわる人は、本物の体験をしていない。
神様の名前にこだわる人も、ニセモノの方が多い。(全員が
ニセモノではないのよ。だから、よけい紛らわしい。)
本当の体験では、声なんか聞こえないよ。
では実際、ナニを見るかというと、
ボヤッとした、概念の塊。
意識の塊。
知識の塊。
叡智とか、真理とか、法則とか、仕組みとか。
仕組みがわかるので、それを言葉で表そうとすると、「声」になる。
ただそれだけ。
仕組みがわかれば、安心できる。
「死」さえも怖くなくなるよ。
でもそれを見た事が、実際、本当に死ぬまでの、残り人生に、
ぴったりあてはめて応用できる「生きるための」ハウトゥーなのかというと、そういうわけではない。
それに沿って生きると、ごはん食べなくてもいいし寝なくてもいい。
山の中で誰にも会わずに、パンツいっちょで優しい目をして暮らしてればいい。
そうしたい?
そうしたいなら、すればいいと思うよ。
でも、だいたいみんな、生活水準は同じように暮らしたいと思うよね。
水準は同じかそれ以上で、楽に暮らしたいと思うよね。
じゃあそれを選べばいい。
選ぶのは自己責任だ。

仕組みを見るって事は、
なんだろう、「目」をもう一個もらった感じか。
嗅覚が、犬並みに鋭くなった、という感じか。
目がみっつになって、鼻がよくなっても、自分のやりたい事も
やらずに、やれずに、卑屈に生きてたら、なんにも楽しくない。

ここで、「宿題」が、出る。
実際は、「宿題」なんてハッキリした形のものではなくて、
これはただのあたしの比喩だからね。
比喩的にいうと、「宿題」とは、やらないといけないもの だ。
あ〜、いけなくもないんだけど。
なにを選んでもいいんだから、「いけない」ではない。
言葉で表すのが限界。
だから感じ取ってね。

ここであたしが宿題といっているのは、
もともとは、
仕組みの塊の中から伝わって来る、
「自由に生きていいんだよ」という声(比喩)を自分の中で解釈しなおしたもの。
仕組みの塊・真理、それを定義して「神」と呼ぶんだけど、
神は、「いいよ」しか言わない。
「存在していいよ」しか、言わない。
言うって、比喩だからね。声なんか聞こえないよ。
生きるというのは、その声に従うという事。
それに従うためには、
ためには、

今やってる、やりたくない事を、今すぐやめて、
今やってない、やりたい事を、今すぐ始める。

そうしなさい、と、声は言う(比喩だから、「しなさい」も「声」も無いよ)

悟りの世界を見た後に苦しむのは、
そのふたつが、なかなか、できないからだ。
だってやるには、感謝しないといけないだもん。

なにをしたい?なにをやめたい?
離婚?別居?親からの独立?転職?
なにもかも破壊する事?
それとも、すべてを愛で受け止める事?
人によって、どれも苦しい。怖いから。
ゾーッて体が反応する。

結局、第3の層からすれば、
どれもいっしょで、
どれやっても意味なくて、
やってもやらなくても良くて、
ぜ〜んぶそのままでいいんだけど、
肉体を空気と水と大地から借りて、生きていくのならば、
やりたい事ばっかやって楽しく生きればいいと思うんだ。
だって今まで、自分自身の本当の欲求に従って、
生きてこなかったでしょ?
だいたいそもそも、悟りの世界を見る前に苦しくて
病気になるのは、自分の欲求を偽って、偽の自分を生きてたからだ。





posted by 辰多みか at 11:45 | 悟り | 更新情報をチェックする
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