2014年04月06日

一瞥後の人へ、一瞥前の人へ

悟りの一瞥をすると、
同じ経験をした同志が、わかるようになるよね。
"神"について書かれている書物の、本物・偽物がわかるようになるよね。
悟りとは、神とは、真理とは、「こういうモノ」という、
感覚を伴った理解ができるよね。

そう、いろんな事が、できるようになる。
神に通じる力なので、
この事を、
昔の人は、
「神通力」と呼んだのではないかと、あたしは思う。

でも、
なんでもできる ようになるわけではない。
苦もなく、軽々と、できるように、なるわけでは、ない。

"できる"ように、なるのは、
「理解」だけ。
わかるようになる だけ。
「仕組み・知恵・叡智」が、一気に、自分の物になるだけ。

そう、頭の中でだけのこと。

その「仕組み・知恵・叡智」を、自分が今、リアリティを
持って生きている肉体のレベルで実践しようとすると、
もれなく、「苦」が付いてくる。

だから、悟りの一瞥をして、
それでも人生がうまくいかなくて苦しい人は、
「そういう道筋がふつう」だから、安心してね。

なにをすべきかは、わかってるはずだ。
「仕組み・知恵・叡智」から、伝わってるはずだ。
だから、「それ」を淡々とやればいい。
苦しいけど。



そしてね、まだ、悟りの一瞥をしてない人に対しては、
あたしのメッセージは、別角度からになる。
ぜんぜん別のメッセージになる。

悟りの一瞥をしていない人は、「安心」してはいけない。
上記↑を読んで安心してはいけない。
安心は、悟りからあなたを遠ざける。
ちょっと考えてみて。
あなたは安心する事で、もらってる「何か」があるはずだ。
欲しい「何か」が、あるはずだ。
悟りたいなら、その「何か」を、もらおうという魂胆を、見抜くこと。


あたしが、悟りを求める迷い人に言える事は、ただひとつ。
「死になよ」

ああ、早合点しないで。
自殺しな、と言ってるわけじゃないよ。
自我を無理矢理おしこめろ、と、言ってるわけでもないよ。

死ぬ気になったら、
本当に死ぬ気になったら、
これも、できるはずだ。
「それをやったら私らしくない。」
「それを認めたら私が私でなくなってしまう。」
「そんなの言うなんてありえない。」
それらを、死ぬ気で、やるの。
捨て身で、やるの。
だって、死ぬ気、あるんでしょ?
悟るって、生きたまま死ぬって事だよ。

あなたらしくない事を、やりましょう。ホラ。
「おかあさんありがとう」って、口が裂けても言えない一言を伝える。
「おとうさんだいすき」って、鳥肌を立てながら、言う。
「おとうさんおかあさん、私を大事に育ててくれてありがとう」って、
腑に落ちない記憶の中から、「それ」に合致する記憶を、拾い集めてくるんだ。
旦那さん奥さん舅姑に「ありがとう。至らない私でごめん。」て言う。
子供に「あなたのためだと言ってきたけど、実は私のためだったよ。」と言う。
気に食わない周りの他人に、「本当にすまない。」と、言う。
認める。
おなかの中で握ってる手を離す。
ホラ。
やってごらん?
怖いよ?

悟りたいのだったら、
スピリチュアルに「安心」を求めてはいけない。
これが覚醒前・一瞥前のあなたに、言えること。
悟りに興味ないのだったら、いっぱい安心してもらって大丈夫。
スピリチュアルメッセージには、そういう役目もある。

悟りの一瞥をしたあとはじめて、
あたしが、
「死ね」って、
突き放した意味が、わかるよ。




posted by 辰多みか at 17:14 | 悟り | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。