2013年09月03日

「自我」の厚さはおよそ3ミクロン

あたしはね、思うんだけど、
「自我」って、目で見えるんだ。

オーラみたいに、がんばって、見るものではなくて、
実は・・実は・・・、

この世で生きている、誰もが(誰もじゃない、ごめんなさい目が見える人だけだ…)
目を開ければ、常に、見ている。

「自我」を。


「自我」は、薄〜〜く、視界に張り付いているから、
まるで見えていないように、見えるの。
そう、目に張り付いたウロコみたいに。
だけど、人は常に、この自我を通して、くもった世界を見ているのよ。

たとえが、あっちゃこっちゃで、混乱するかもしれないけど、
ホントは、視界や目に張り付いているのではなくて、
自分自身の全体を、卵のカラみたいに、覆っているのが自我 だと思うんだけどね。

なんでそう思うのかというと、一度その くもり が晴れて、
視界が、キラキラ したのを見たから。

見る世界は、すべてが純粋だった。
くもりが晴れた瞬間。

あたしは、その状態は、一瞬で終わったけど(笑)。

鏡やガラスにつく くもり は、測れるんだよ。
目に見えて汚れてるってわかるホコリではなくて、
うす〜く、くもってるかな?と感じる程度の、くもり。


あたしは、何度も測った事がある。

それは、だいたい3μm(さんみくろん さんまいくろめーた さんまいくろめーとる)くらいなの。
少し前に、中国の大気汚染関連で、PM2.5 (ぴーえむにいてんご) というのが話題になったじゃん。
粒の大きさが 2.5ミクロン くらいだから、そういう名前なんだけど、
まさに、このくらいの大きさ なんだよね、ガラスのくもりって。

マイクロメータ という、測定機器で簡単に測れるの。
とってもアナログな機器だけど、ミクロン単位まで簡単に測れて、数値が目で見えるのよ。
「自我」は測れないけど、だいたいこのガラスのくもりくらいかなと、あの時目で見た感覚で、思うよ。


posted by 辰多みか at 22:50 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年07月23日

目からウロコが落ちた


昨日書いた、ね、

夏フェスでの、できごと。


5年前の悟りの瞬間を彷彿とさせたあの瞬間。
まわりがキラキラして、25000人が「あたし」だと
実感した瞬間、

そうだ〜目からウロコが落ちるって、コレだわ!!と思ったよ。

その時の、25000人が、あたしの心の目から見て、
どう見えていたと思う?

うふふ、みんな芝生に座ってたり立ってたりしたんだけど
(ステージとステージの間のほんのちょっとの休憩時間だったから)
その、芝生のみんなはね、
胸から下は、

みんな海に浸かっているのよ。

「愛」という名の海水の。

みんな胸から上は海水の上に出ていて、違った顔をして、
ニコニコ笑ってたりとても楽しそうで、
(楽しいフェスだったからね)

でもね、胸から下は、み〜んな、おんなじ物で、

満たされているのよ。
「愛」という名の海水で。(大事な事なので2度書きましたよ)
その時、あたしの目のくもりが取れたんだよな〜。

いつのまにか(生まれつき?)、目にウロコがへばりついちゃってて、
その、気づいた時に、
ポロッ と、
落ちたのね〜。

まあ、すぐまた曇ったけどね・・・
でも、コレ練習すれば、常にこの状態が定着できそうな気がする!
posted by 辰多みか at 22:08 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年07月22日

くもりがとれる瞬間


悟った時ね、

たぶん世界は輝いていたんだ。

忘れちゃったけど。
それをどうしても思い出したくて、この日記を書いてる。

一週間前の事。
そう、ちょうど7月13日。
あたしがtextファイルとして、日記を書きためてぴったり一年たった、あの日。
その書きためたtextファイルをブログとして世間に出そうと、前夜12時すぎにブログ登録した、あの日。
あたしは夏フェスの広大な観客席にいたの。
あはは。ぐぐったら、どこに居たか、すぐにわかっちゃう(笑)。
そう、あたしは、あの2万5千人の中にいた。

観客はみんなとってもマナーが良くて、譲り合い・盛り上げ方・笑顔・歓声。
うーん、ゆとり教育(いい意味で)のたまものなのか。
だけどね、まあ、大人数だから、ちょっとしたトラブル(まではいかないけど)は
多少はあるのだ。場所取りとかね。

あたしは、始終、ほとんど上機嫌だったけど、一瞬、気分が落ちた時があった。
それはあたしの罪悪感が発動した時。

自分の心の中を知る以前は、「ああ〜イヤだな〜」と思っちゃう所だけれど、
その時は、「・・・あたしの罪悪感がうずいているから、こう思う。」と、
自分を分析して見ていた。
するとね、
突然、

まわりがキラキラしだしたんだ。
「ありゃ〜まわりは全員、あたしだ」と思ったわ。
まわりの25000人の顔があたしに見える、とか、そんなんではないよ。

自分が見ている風景が、
実はフィルターがかかっていて、それは常にそうだから、
自分では全く気が付かない・気が付けれない性質のものだってことがわかって、

なぜわかったかというと、そのフィルターが、左右にサーッと、一瞬開いたからなの。
フィルターは、右目にも左目にも有ったよ。
サーッと開いた瞬間、風景がキラキラ、純粋に、見えて、
そして
なんか知らないけど、一瞬で、閉じた!!

なんだよ、あたしの心、くもりっぱなしじゃん(笑)。

たぶんね、昔はやった、3D画像集みたいに、
自分で焦点を合わせると、(いや、逆に、合わせないと、)
フィルターが、はずれる仕組みになってる?!
やっぱ中心どおしをしっかり合わせるとか?
そのフィルターって、「あたしは悪くない」とか「あたしがこんなにしてるのに」とかの
「罪悪感」「犠牲者意識」「被害者意識」とか、そんなので曇ってる。

あたしがまた見てみたいと思ってた、仕組みを、一瞬、見たわ!
(でもなぜか、また一瞬だったわ)
その瞬間、ここにいる25000人、いや、世界中、宇宙中の、全ひとびとは、
みな、あたしと同じ心を持ってて、
いくら殺人者と呼ばれる極悪人といわれる人でも、
「真の悪人」ていうのは、存在しないんだな、と思ったよ。

そして、帰り道、車の中で、
もしもあたしが通り魔とかに会っても、
説得できる気がしてた。
犯行を未然に防いで、しかも当人は心から反省する。
それは、あたしが愛を持って相手に向かい合えば、きっとできるのだと、
そんな物語を書きたいなと、思いながら、
フェスの余韻に浸りつつ、物語を考えつつ、帰ったわ。

常にフィルターがはずれてればいいのに。
それは訓練のたまものなのかしら。
posted by 辰多みか at 10:00 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年07月12日

神様とゼロがそれぞれふたつある話そのA

あしたでね、

日記を書きためて、ちょうど一年なの。

その日(13日)、書こうと思っていた、タイトル の事。


あした13日は、一日出掛ける用事があるのだ〜〜

だから、一年目イブだけど、今書くの。

そして、あたしの目的は、この一年書きためた日記(記事)を

ブログかなんかで、世間に公開することなのよ。

(もうすでに世間様むけに書いてる)

13日にしようと思ってたけど、夜まで用事があるから、できるのかしら。


ちょうど一年前は、ヒッグス粒子の事を書いたわ。

「神の粒子」という名前には、賛成できない、と。

そう、「あ ん な も の 神 じゃ な い」



そういえば、あれ以降、ヒッグス粒子の話題を聞かないけど、

どうなったのかな。

たしか、実験のヒッグス粒子の存在確率が5σ超えだったから、発表したんだっけ?

さんしぐまを超えると、"そうではない"確率は、1000個に3個 だから、

ごしぐまを超えると…"そうではない"確率は、1000万個に6個 か?

ジャンボ宝くじに当たる確率が、1000万分の一(枚) みたいだから、

う〜ん、"ヒッグス粒子じゃない確率"って、案外、高く感じるわ。

(もちろん宝くじが当たると思ってるので!笑)


そう、神様がふたつ(2種類)ある、という話。

ホントは3種類なのかもしれなくて、

4種類以上は、無い、となぜか断言できるのだけど、

3種類目をいまいち実感できないから、今のところ、神様は、

感覚的にはふたつ、あると思ってるの。

でもね、実際には、たったひとつ、なんだよ。


一年前に、書いた事だよ。


それはね、ふたつのうちひとつは、やおよろずの神さまで、

あたしが「悟った」時、感じた神様。

あたしも、みんなも、人間全部、生き物全部、物質全部が、それぞれ

神様、と感じた、あの感覚。

日本古来の神様は、コレだ、と思った、あの神様。

それは、空間をゼロで区切って、おのおの「1」として存在しているの。

たったひとつ、では存在できないの。ふたつ以上あってはじめて存在できるの。

なぜかというと、しつこいけど、空間をゼロで区切るから。

やおよろずの神様は、ゼロの膜を含めて「1」なんだけど、

ゼロの膜が有る限り、他人 と同一化することができないから、

自分で自分の"神性"を認識できるのは、微分した、0.9999999…の内容物のみ、なんだよ。

ゼロの膜がある、ということは、いいかえると、他人とつながりが無い、なの。

だから、個々が神様、というのは、この、近似値で表された神性 なんだよな。


もうひとつの神様は、みんなが、ワンネス、と呼んでいる、

おおいなるひとつ。

ゼロの膜も近似値の内容物も、ぜんぶぜんぶ含めて、「1」

やおよろずの神も、ぜんぶひっくるめて、ひとつ神。

本当の本当の、「有る」

ただ「有る・在る」という意味の、神様。

だから、その先に果てがあるかというと、うーん、たぶん無い?

ゼロの膜が無い?

果てがあるか無いかが、一年前からまだ、あたしは実感できないんだよな。

だけど、この神様は、ゼロを超えるんだよ。

そしてゼロを超えると、次元がひとつ減るの。

次元って、たぶん無限にあるのではなくて、

八元数以上は無いっぽいから(?) 8 か お釈迦様が言ってた(?) 9 か、

超ひも理論でいうと10か11か、う〜ん、そのほかいろんな理論を見ると

最高13(鏡にうつすと26) くらいだと思うよ。

まだまだ勉強不足だから、あたしはなんともいえないの。


でも、おおいなるひとつ、は、悟って実感したのではなくて、

統計・確率、虚数空間、を勉強した時に、感じた事。


最近は、最初に悟った時のことばかり一生懸命思いだそうとして、

そして思いだせたのだけど、逆に、この数の世界で感じた、

おおいなるひとつの神様の感覚を、忘れてしまった。

じゃあ、これから一年は、こちらの神様を思い出す一年にしようかな。

そしたら、まず、微分積分を勉強して、射影幾何学を勉強して、

統計学に行って、不確定性原理まで行って、量子力学をやらないとダメだわ。


ダメだわ、というか、ワクワクするわ。

2年くらいあればなんとかなるかな。


あぁ、心おきなく、数の世界を探求したい。

そして、実践面では、愛の人に、なる。

(愛人ではないですよ)

よし、これがこの先の目標だわ。

やっぱ、どこかのセミナーとか行った方がいいのかしら。

どこがいいか迷うー。

近場の、前行こうと思ってたお寺がいいのかしら。



そう、ゼロがふたつ、本当は3つある、というのは、

1.ホンモノのゼロ。これは本当に"何も無い"ゼロで、あなたと、わたしの区切り。

2.無限小のゼロ・空のゼロ。これは、無限小をゼロと勘違いするゼロ で、逆数にすると無限大になるのだ。

3.見た目のゼロ。これは目盛りとしての、ゼロ。このゼロは、ゼロって意味は無くて、

 その役割は、1でも2でも、代用できるのだ。

と、あたしは思う。


うん、もっと、知りたいな。

腑に落としたいの。

そして、真に悟って、至高を体験したいの。

うん、こんなよくばりだと悟れないよね。
posted by 辰多みか at 00:00 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年07月08日

メモ 内観法 内観療法


瞑想の森 内観研修所
栃木県さくら市


もっと近くにあるといいな。


あたしが、車の後部座席でぐぅ〜っと深く自分の中に入って行った時、

たぶん無意識に、この「内観法」というのをやってたんだわ。
posted by 辰多みか at 23:00 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年06月27日

みんなの覚醒体験


あたしはさ、

5年前、

あの、悟った日、

(この悟りという表現が、

人類みな一様の、共通認識がある言葉ではないから、

人によっていろいろ違う意味で使われてるんだけど、

あたしと同じ体験をした人なら、わかるよね。

あたしの場合は、悟りというよりは、気づき か 覚醒が

妥当かな)


世の中の仕組みがわかってしまって、

この日記に書く内容も、その、気づきの後のことばかり

書いているんだけど、


そう、あの悟った日のあと、どうやってあたしが悟ったか、

すっかり忘れてしまって、それを思い出すために、この日記を書き始めたのだった。

書き始めたのはちょうど一年近く前の事。


同じような体験をした人がいるかどうか、ネットで調べた。

想像をはるかに超えるひとびとが、既に覚醒している事を知った。

そこには、あたしが到らなかった、至福の体験をしている人もたくさん。

これが、アセンションだと言っている人もいた。


うん、

とうとうそんな時代が来たんだね。

ノストラダムスが早く見つけなさいと言っていたのが"コレ"だったのかも。




でもね。

みんな、

ブログに書く事、

ちょっと情報が、小出しじゃないの(笑)?



死ぬほどつらい自我状態になって、

覚醒する人がたくさんなんだけど、

(あたしもその一員なんだけど)


その、死ぬほどつらい、本当の自分の姿を、

具体的に書いている人があんまりいないのよ。



うん、"その時、なにを考えていたか"。


それはね、自分の裸を見せるより、恥ずかしい事だと思う。

だって、あたしも、恥ずかしすぎて、とても、書けない。

うっすらとぼやかして書いたけど、

とても、ハッキリなんて、書けない。



だって、見つめる事すらできなかったんだからね。



だから、それが、世間に、悟りに関しての誤解を与える一因

なんじゃないかなーと、思うよ。


釈迦が、キリストが、悟った時に考えてたコト。

きっと、世間一般に言って、"いやらしい"ことだったんじゃないかって思うのよ。

それは、肉体的ないやらしいではなくて、(まあ人によったら、ズバリこの肉体の"いやらしい"

かもしれないけどね)ずるい考えだとか、こすい考えだとか、けちだとか、

そんな感じの。


死ぬほど自分を追い詰めて、覚醒ーー。

みたいな感じで、みんな(釈迦をはじめ)概略だけしか話さないから、一般に、

理解されないんじゃないかと思うのよ。

だから、肉体的に苦行をすれば悟れるとか、そんな一般認識になっちゃうと思うのよ。



肉体的に苦行をすれば悟れるなんて、そうじゃないでしょう。

同じ"アレ"を見た、みんななら、わかるよね?



みんな、見たくない、自分を、見たんだよね?

そしたら"それ"は"在"って、

ただ在って、

そして見たくなかった自分は、自分の本当の味方で、

"それ"は愛でできていて、

この宇宙すべてが、愛で、できていたんでしょ?


その、"その時なにを考えていたか"を、知りたいんだよな〜、あたし。

みんなが、なにを考えていて、なにに気が付いて、覚醒したのか。



あたしはね、

本当に、死ぬほど恥ずかしいから、書く書く言って、ちっとも書きすすめてないけど、

まあ、あたしの場合はね、

うん、「自分は悪くない」と言いたいがために、モラルハラスメントをやりたかった、ということだ。

キャー恥ずかしー。今はこれ以上書けないっ

それ、自分で、全く、気づかないよっ。

人に、指摘されるんだけど、ホントに全く気づかない。



「悪くない」と訴えてるのに、苦しくて、なぜなんだろうと、

深く深く、深〜く、自分の中に潜っていった時に、気づいた。



人ってね、そうやって、自分で気がつかないと、

いくら他人から指摘されても、無駄なのよ。



だから、みんなが覚醒した時に、

自分の、どんな"ずるい""いやらしい"所に気がついたのか、

知りたいんだよな〜。


だけど、気がついても、大丈夫だもんね。

うん、"気がつけば"、大丈夫だもんね。


気がつけば、その、気づいてあげた"自分自身"は、ほかの誰よりも強い、

もう、史上最強の、

自分の味方なんだもんね。



ああ、

"本当の自分"という定義にも、多々あって、

これも誤解を招く要因なんだけど、

あたしが上で描いている"本当の自分"とは、無意識化で動いている自我の事であって、


本当の意味での、"本当の自分"というのは、

"神"

なんだからね。


うーん、これも誤解を招くー。
posted by 辰多みか at 23:01 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

変性意識状態


これだわ。


あたしが悟った(気づいた)時、こうだったんだわ。



あーん?、でも、薬物とか右側頭葉のシルビウス裂とか、よくわかんないんだけど、

ひとつだけ言えることがある。



それは、自分自身の、一番見たくない、

一番、自分で知りたくない、

触ろうとするだけで、心が痛いような、

心の奥から地獄の悲鳴が聞こえるような、

直視するくらいなら肉体的に死んだほうがましと思えるほどの、

"痛い、つらい、本当の自分自身"を、見ることができれば、

(見る覚悟があれば)


誰でも、変性意識状態に、なれるのよ。


そしてその後、本当の、思ったとおりの人生が歩めるようになる。


アルコールとか薬物とかでは、できないな。





それで、"痛い、つらい、本当の自分自身"って、

自分が意識できる自分の中には、まったく存在してないもんだから、

(存在してないかのように、巧妙に隠されてるもんだから)


気づく のが、 本当に、至難のワザ なんだよね。
posted by 辰多みか at 23:00 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年06月07日

神様をはじめて見た時のこと


あたしは過去に何度も何度も書いている。

「神様を見た」と。

「自分自身が神様だった」と。

「わたしもあなたも神様で、すべてが神様だった」と。



その、はじめての時の事を、ちょっと詳しく書こうかと思います。

といっても、一点だけね。

どうして、その状態になったかは、何度も書いているから、そっちを見て。


あたしは、あの、うーん、たしか2007年ごろ、

車の後部座席で、絶望の淵にいて、目は過ぎてく浜名湖の景色を見ていて、

自分の中に、中に、どんどん降りて行ったら

自分が自分の中に隠していた自分に気付いてしまって、

その時突然、世界がひっくり返った。

出口も無い八方塞がりだと思っていた自分の心の中は、

たとえようもないほど広大な外に繋がっていた。


その時感じたのは、

自分以外の人を、動かすことができる唯一の力。

それは愛。


「隣人を愛しなさい」というキリストの言葉が、その時本当に理解できたの。


その、愛を発している本体、これ→  ← は、なんだろう。

世界のすべて だ。

本当の、あたし。

名前が付けられない。

一言で言い表せない。

言葉にしたとたん、これ→  ←は自由を失う。

(どんな名前でもいいという自由を)


白であり黒である(あたしは悪くないと思っていたのに悪かった)。

上であり下である(下に降りて行った先が天国だった)。

中であり外である(あたしは中に入って行ったのに、外にでた)。

そして ただ在る だけ

100% 存在 だけ。

これは体験したもの同士でしか、理解し合えない。

どう説明しても片手落ちになってしまう。


そうだ、これ→  ←が、昔の人が伝えたかった、「神様」なんだ。

今現在のあたしも、そして他の人も、想像している「神様」と、

全然違うけど、でも、確信を持って言える。

これ→  ←が、「神様」か!


だいぶ、最初と意味が違ってきちゃってるね。神様。

神様は怒らないのにね。怒って洪水をおこすなんて事しないのにね。

「神様」を体験したことが無い人が伝えると、こうなってしまうのか。

それならば今の宗教はどれもこれも、形だけしか、無い。


それが、最初に神様を見た時の事。



そのあと、もう一度、数の世界であたしは「神様」を見るんだよ。

数の世界の神様は、逆光に浮かび上がるシルエットなの。

数式が(この世の法則が)、神様の輪郭を形づくるの。


数式は、ひとつではなくて、色々な数式が、神様の一部を表しているよ。

全部つなぎ合わせると神様の全身が見えるけど、いっぺんに全部見る事はできないの。


それが二度目に神様を見た時。

その時、完璧に、世界は、神様は、たったひとつなんだ、と確信した。
posted by 辰多みか at 23:03 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年06月06日

正義という名の武器を振りかざして


モラルハラスメントをする人は、

「悪い事してる」って、思ってない。

正当防衛だと、思ってる。


だから、たぶん、最初は、

はじめて会った時は、

とてもいい人。


モラルハラスメントをする人は、

(長いから、モラハラーに略すよ!)

たぶん、最初のうちは、絶対悪口とか言わない。

あ、たぶん、モラハラーになっても、「悪口」は、きっと言わない。


モラハラーってね、「悪口は絶対言ってはいけない」と強く思っているよ。

モラハラの被害者は、そんな事信じられないだろうけど。


モラハラをするには、相手が必要なワケで、

その相手を、「モラハラ被害者」としておこう。

ただの「被害者」だと、誤解を招くから。

なぜかというと、モラハラーも、心理的には「自分は被害者だ」と思っているからだ。


信じられないでしょう?

実は、モラルハラスメントの場面には、「被害者」と「被害者」しかいないのだ。

そんなバカな、て思っちゃうけど、ホントなの。


だってあたしがモラハラーだったから。

あ、大カミングアウトしちゃったわ。

て、前も書いたか。


実際は、モラハラ気味だったというか、

心理がモラハラーだったというか。


もしも、あたしが男だったら、か ん ぺ き に、

正真正銘のモラハラーになってただろうね。

おぉ、始末が悪い(笑)←笑ってる場合じゃねーッ

男じゃなくてよかった。

男だったら奥さんに逃げられてたわ。

そしてなぜ逃げられたのかも、さっぱりわからずに一生過ごしたかもよ。


モラハラーは、品行方正に、まわりを注意深く観察しながら、息を潜めてすごす。

そして、無意識に、「自分が傷つけられた」回数を、カウントしていく。

相手ひとりひとりに対して、カウンターがひとつずつ有るんだよ。


ある程度までは、保険の免責みたいに、カウントしても、なにも起こらないが

ある回数を超えると、一瞬で「スイッチ」がはいる。

そう、モラハラスイッチ。(いやだそんなスイッチ)

「聖☆おにいさん」風にいうと、「仏の顔カウントダウン」


そうなったら、もう、止められない。

だって、モラハラーは、傷ついているんだもの。

「相手のせいで」、傷ついているんだもの。

怒ったり不機嫌になったり、

それは、すべて「相手のせい」なんだもの。

やだー、モラハラ。



あたしは全然気付いていなかった。

あたしは、意識的にはただ、「相手のせいで嫌な気持ちになる」としか、認識していなかった。


あたしが自分で気付いていない上に、相手にしていた事は、

・「相手が悪いからあたしは正々堂々と相手を攻撃して良い」と思っていた事。

・最初は、こちらから相手を一切攻撃しない。しないかわりに、もしもされたら、それは完璧に相手が悪いと"思いたい"という事。

・相手があたしを傷つけてくるのを、実は、じっと待っていた事。

・「相手が悪い」のを証明するために、あたしはわざと不幸になっていた事。

・おなじく「相手が悪い」のを証明するために、あたしはわざと不自由になっていた事。

・どんな物事を見ても、「相手が悪い」の証拠探しと、「あたしは悪くない」の証拠探しをしていた事。

・「相手が悪い」と思い込むのは、「実は、悪いかもしれない自分」を見たくないからである事。

・相手からの攻撃をあびているように思っているが、実は「自分の本性」から逃げるのに必死である事。


そして、あたしは常に「あたしは悪くない」と心から思っていた。



いろいろうまくいかなくて苦しかった。

なぜ不自由なのか、さっぱりわからなかった。

そして、ある時、突然気付いた。

あの、浜名湖の競艇の横で。

「あれ…? あたしのやろうとしている事は、モラルハラスメントだ…」


「あたしは悪くない」と心の底から叫んでいたのに、

使った手段は、「悪い事」だった。

モラルハラスメントは、「悪い事」だよね、疑いなく。


あれ?、あたし「悪い」じゃん…


正論で、正義で、清く正しく「悪くない」と訴えていた手段が、

「相手にとったら悪い事」だった…


その時、世界がひっくり返ったの。

自分の中に中に中に、どんどん中に降りていったら、

出た先は、広大な、外だったの。



あ、あたし神様だったわ と 思い出した。

あ、そうか、みんな同じ、神様だったわ

やおよろずの神って、この事だわ。


憎しみでは、相手を動かす事はできないわ。

愛でしか、できないわ。

でも、愛は、相手を変える事も望んでいないわ。

ただそのままでいい と 言っている。



それが、すとーーーん、と腑に落ちた。

腑って、ちょっと堅かった。

生のゾウモツじゃなくて、ゆでたゾウモツくらいの堅さだった。


その時、心の中で言った言葉は、

「あぁ… 」だけなんだけどね。



それが、あの日、感じたことなんだよな。

でも、それでびっくりしすぎちゃって、

「至福」までには至らなかったな。

まだ、あたしが解消しなければいけない宿題が多すぎて、

答えをいっぺんで全部見ちゃったのに、やるのに、心がついてこなかったという。

今、ようやく、少しずつできるようになったの。



世界のモラハラー、

はやく、気付いて。


そうあたしは祈るよ、今夜は。


posted by 辰多みか at 23:04 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年05月17日

観念する


観念する

観念する

悟る



わぁ。


観念する

観念する

悟る



わぁぁ。


すごい言葉だ!!

昔の人は知ってたんだね!!


もういっちょいくと、

必死になる

観念する

観念する

悟る


これだ!!




必死になる=もうね、死ぬほどつらいの。

観念する=あきらめるの。絶望するの。死ぬのもあきらめるんだよ(ココ重要!!)。

観念する=念を観るの。本当の自分の内側を見るの。
 かぶっている仮面と、なぜその仮面をかぶったかを観るんだよ。

悟る=自分の内側の、仮面の下が神様で、そしてそこは、広大な外側だという事を知るんだよ。




観念おし!(笑) わぁぁぁ。

そういうことかー。

悟れなかった人が、別の意味に受け取っちゃったんだねー。



「必死に観念すれば悟れます」これだねー。

でも、悟った事のない人には、絶対に絶対に伝わらない言葉なんだよなー。
posted by 辰多みか at 23:00 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年05月14日

至高と完全な無は体験してないんだよなー


あたしは、あの、浜名湖の横の道を車で通ってる時、

突然悟って、

(浜名湖に行ったから悟ったんじゃない。車の中で

ずっと自分の苦しみについて考えていて、

悟った時に、たまたま浜名湖だっただけ)



心が、痛くて、

悟ったら、

びっくりして、


「あぁ↓」って言って。

痛くなくなって。



びっくりしすぎて、それだけだったな。



そのあと何年も、その感覚を思い出したいな〜と、ぼんやり思うだけだったけど、

去年、本格的に思い出そうと、この日記を書き始めた。


そうしたら、やっぱり、書くっていいね。


徐々に思いだしてきたよ。


そして、いろんな人の経験談も、検索しはじめた。

そうしたら、「とてつもない至高感」とか「幸福感」とか、体験してるじゃないの、みんな。

あたしが一瞬で終わってしまった悟り状態が、一週間も続いたとか。


うーん、いいなぁ。



あと、「完全な無」とか「絶対的な無」とか「完全なる静寂」とか「漆黒の闇」とか、

そういうのを体験してる人もいるのよ。



あたしは、ソレ無かったなー。



統計学で神を見た時に、


本当のゼロと、見た目のゼロと、無限小をゼロと勘違いするゼロがある事を、体験したけど、



その事なのかなー??

ちなみに、みんなが「完全な無」と思ってるのが何かはあたしは感じ取れないけど、

「本当のゼロ」は、「自我が有る」という事だと、あたしは感じるんだよ。



で、「無から有が生まれる」、「空(くう)」とみんなが思ってるのは、

あたしは、「無限小」のことだと思うよ。



そのふたつを体験したいの。

至高と完全な無

憧れるー。


でも、「体験したい」て念じてると、絶対体験できないからねー(笑)


うまく忘れよう…(←コレもダメ・笑)

posted by 辰多みか at 23:02 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

善悪を知る(知りえないのが本当だけど)実を食べたばかりに


人は、


ありのままでいいといわれて、

本当に、その言葉どおり、


ありのままでいる人って、

悟った人以外いないと思うよ。


悟った人だって、あたしみたいにレベルが低かったら、

ありのままでなんかいられないから。


そうとう、難しいと思うよ。


ありのまま、というのは、生まれおちたそのままという意味。

外見が裸という意味じゃないけど、まあ、裸、という意味。


文字で表すのって難しいね。



人間は、裸の心で生まれて、

成長して、いろんな人間関係を経ていくうちに、

モノの善悪を知る。

その善悪ったって、その時代や国でも変わるものなんだけど、

まあ、モラルとか、法律とかかなー。


嫌な事をすると、人に嫌われるとか、そんな事だね。



それで、その裸の心は、これではいけないと、「自我」をまとうようになる。


その「これではいけない」も、人によって、全然違うのだ。


つまり、人類共通の善悪って、本当は無いんだ。




本当は、裸の心が、自我で、

その中に、本当の自分=神様=愛 がいるわけなんだけど、

今日の話は、神様のところまでは行かない。


「自我」は「自我」の都合の良いように、自分の見た目も、自分が「心」と思ってる、

精神の浅い部分までも、支配するのだ。



みんな、そんな状態の自分を「ありのまま」と錯覚してる。

「自我」ががんばってる表面を見て、「ありのまま」と思ってる。


そうじゃないんだよ!!



だから、「あなたはその、ありのままのあなたでいい」と言われて、

ねじれにねじれた自分の姿を見て、「いい」と思い込むのかもしれないけど、


本当に「いい」と言われているのは、

生まれたままの、裸の心の自分だ。



アダムとイブが

知恵の実、

善悪を知る実を食べて、

裸でいるのに気付いて恥ずかしくなってはっぱで隠した、といういいつたえは、

「自我」の芽生えのことをいってるんだよ、たぶん。


ほんとうは、裸のままで、なにも問題ないのに…

人と違うところを隠そう隠そうとする。

自分が善悪と信じてしまったモノ。



不完全な自分を、悪と感じる事。


それこそが、人類の罪じゃないかと思うの。



そして、人生経験を経て、

「自我」で自分自身をごまかして、守ってきて、

苦しくなって、

もう、ごまかしきれなくなった時、


人は、本当の、「ありのままの自分」を見なくちゃいけないようになるんだと思うの。



「見る」時、

苦しくて、痛くて、怖くて、爆発したり、灼熱だったり極寒だったり、

死ぬほうが楽、と感じちゃうかもしれない。


「見よう」とするだけで、そういう反応が起こるから、

人は、それ以上見ないように、もっともっとごまかすかもしれない。


でも、苦しみから本当に解放されるには、

「ありのままの自分」を見なくちゃいけないのだ。

「不完全な自分」を見なくちゃいけないのだ。


だって、居ないことにされている、「不完全」な自分は、

自分の中で、泣いているよ。

「見て! 見て! 認めて! 気が付いて!」って聞こえない声で叫んでいる。



その自分を見た時、

見れた時、

「悟り」が来るの。

あたし、来ちゃったから。



だから、ありのままの自分でいい、と、真に気づいている人は、

悟ってる人だと思うの。
posted by 辰多みか at 23:01 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年05月10日

「認める」だぁ、「許す」だぁ、「手放す」だぁ、具体的にどうするかわかりやすく説明しろよ!!


と、あたしは、悟ってから、何年も何年も、

できなくてできなくて、

悩んできた。



悟っちゃっても、いきなり賢者になるわけじゃない。



安心して(笑)←ぃゃ安心できないだろ…
(↑過去のあたしに言ってるんだよ)



悟ったら、わかったのは、自分がこの宇宙で、転生を繰り返してきた結果今いるレベル(高さ)。

あと、どのくらい、自分の心に穴があいているか(ものすごい大きな穴だったよ)。

で、穴が大きすぎて、宇宙から入ってくる愛が、漏れに漏れてるので、愛が全然足りない(ように見える)。



それがわかった!!

あと、愛でしか物事(人も)を動かせないということ。

あなたも私もみんな神様で、そこらじゅうみんな神様ということ。

この世は自分が見ている幻想で、それは自分の心(自我)をうつした鏡だということ。

「北風と太陽」の 太陽は、愛 だということ。



そこまでは、あの時、一瞬でわかった。

そのあと偶然、統計学を勉強して、神様は、真にたったひとつ、だということがわかった。



んで、あたしの場合は、「自我」がすぐ生き返っちゃって、

「悟り状態」があっと言う間に解除されちゃったんで、

そのあとの人間改造というか、「悟りの醍醐味」みたいなところまで行かずに、

現実世界(実は幻想世界)に戻ってきてしまったのだと思う。



それは、レベル(高さ)が、圧倒的に低かったからなんだよなー。

世界が12までのレベルがあるとすると、

あたしはたぶん、


3


だと思うよ。

謙遜じゃなくて。



(ちなみにひとりさんは、8 くらいと思うよ。あたしの感覚では)



悟りは、ゴールじゃなかった。


そこからまた、あたしの心の旅がはじまった。


まあ、それ以前とは、まるっきり違う旅だったけど。


2回、「できた!」から、また、「できる」気がする。

なにができたかというと「悟り」じゃなくて、

「自我」を見ること。

苦しくて見続けられないんだけど、もうちょっと見つめられたら、

また「悟り」があるような気がする。


何回悟ったって、いいじゃんね。

白隠さんは何百回も悟ったというし…



楽しみだー。
posted by 辰多みか at 23:00 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年05月09日

死ぬという事の本当の意味


あたしは、小学校1年から2年まで、何カ月も「死」について

考えてたと言う変わった子どもだったが(死にたいワケじゃ

なかった。純粋な疑問として。)、

その時考えてた疑問に、大人になってからようやく

答えを見つけられたと思う。

そう、あの悟った瞬間。



人は、死なない。


魂は、死なない。


死にたくても。



ほんとうに死ぬのは、「自分」と自分自身が認識してる、

うすっぺらい表面の部分だ。


そして、その部分は、「死なない魂」が転生しても、

付いてこない。

つまり、消えてなくなる。


むーん、言い方が難しいけど、「消えてなくなる」のではなくて、

そもそも、もともと無い。

光があたって、できた影というか。

ひびや穴をプリズムにしてできる七色のスペクトラムというか。

それが、自分自身が「自分」と思い込んでいるモノ。


あたしは、どこかの宗教?グループに所属してるわけじゃないし、

言葉をちゃんと勉強してないから、言い間違ってるかもしれないので…

それをとある団体内では「自我」と呼ぶのだろうか。「エゴ」とか。



まあ、転生しても、ひびや穴の痕跡と、修復した(努力した)跡は付いて来るので、

まるっきり「死ぬ」ワケじゃないけど…。

ひびって言うと、ガラスみたいに堅そうに思えるけど、修復できるってことは、

たぶん材質?は、柔らかいよね。ジェルやビニールみたいに。

しゃぼんだまか?



それでなにが言いたいかというと、



「死ぬ」のは、



生きててもできるんだよ、て事だよ。

それでその時、「悟り」が来るの。



むーん、全然これじゃ伝わらない。誤解されるー。


まず、言葉をちゃんとしよう!

まず、何を「死」とするかだね。


病気や事故で、息が止まって、心臓が止まる。

それが、あたしたちがふだん認識してる「死」だね。

肉体の死だね。

うん、これはこれで正解なの。

それで、こう思ってれば、ある意味、「楽」なの。

なんで「楽」かというと、人はとても辛い時、「死」に逃げる事ができるからなんだよ。

だから自殺者がいっぱいいるんだよなー。


でもね、でもね、「死」んでからわかることなんだけど、

「肉体の死」はゴールじゃないんだよー。

あたし、肉体的に死んでないけど、わかるんだよー。

「なんだ、おまえ死んでもないのにわかるのか!」って怒られそうだけど、

悟ったから、わかるんだよー。



だって、悟るためには、一回死ななきゃならないんだもの。


つまり、"あたし"は、その時、一回死んだの。肉体は生きながら。浜名湖を横目で見ながら。



あたしはねー、いつもは"私"って自分の事書くけど、

日記に書く時は、"あたし"なの。

これは、「区別」してるからなんだよ。


表の顔の「私」と、

本心を書く、日記の「あたし」。


それで、悟る直前、「あたし」は死んだ。

「あたし」=「自我」だな。「エゴ」とか。

1.表の顔→2.裏の顔→3.自分で気付かない本心→4.…


の、3.の部分が、「自我」だな。



どうやったら、「死んだ」かというと、「自我」に気づいたら、

「自我」が死んじゃったの…

だから、「私」が「あたし」に気が付いたら、「あたし」が死んじゃったの…

ま、すぐ生き返ったけどね(おいおい。 実はコレは喜ばしくないコト)


ここで誤解されないように書いておくけど、

たとえば、なにか「あたし」が原因でまわりのみんなから「あたし」を非難されて

全否定されて、頭がまっしろになってしまって、「あたし死んだ…」では、無いよ!!

その状態は、実は、「あたしもう死ぬ」と思ってるかもしれないが、

今、あたしが書いてる「死」とは真逆で、自我が思い切り「生きてる」

状態なんだ。

「自我」が死なないためには、自我はあえて「肉体の死」を選ぶことだってあるんだ。

それが自殺なの。

それほど「自我」は死にたくないの。

「肉体の死」を選んだり、「病気」を選ぶこともあるよ。

「幸せにならない事」を選ぶ事もあるの。


自我っていうのは、わかりやすくいうと「私は悪くない」なの。

もっというと、「私は悪くない、と思いたいから、他に原因をなすりつけるように

自分自身に指令を出している、悪の根源で、悪そのもの」なの。

まあ、「悪」ってきっぱり言ったら、かわいそうなんだけどー。

それでその善悪って、決めるモノサシがこの世に無いし…



「自我」は「私は悪くない」から、「相手や世間が悪い」から、それを証明するために、

自分の肉体の命を道具として使うの。(全部のケースがそうだとは…まああえて

言わないよ)

「自我」は、「相手や世間が悪い」と思い込む事で、自分を守っているんだ。

究極は、殺人を犯した人とか、モラハラの人、DVに走る人の心理がソレだよ。


「病気」を選ぶ自我は、「私の体が悪い」、「私は運が悪い」と思い込むことで、

「私は悪くない・私に責任は無い」と思いたいの。そのために必死(いっしょうけんめい)なの。

本当はやりたくない事があるのに、人から悪く思われたくなくて(嫌われたくなくて)

やりたくないと言えずに、体のせいにするのが、「病気」を選ぶ「自我」なの。


うぉ〜、ここで脱線するけど、

「必死」って、すごい言葉だ〜。


あたしは、

悟る直前、

自分で巧妙に隠してた「自我」に、自分自身で気がついて、

そしてそこに意識を向けて、うん、光を当てて?

真っ暗闇の中に隠れてた自我を照らしてみたら、

消えてしまったの。

文字で書くと、すっきりさっぱりした印象だけど、

本当は、ものすごい衝撃だったんだからね。

す〜っと消えたワケじゃないよ。

爆発するみたいな衝撃だったんだからね。

そう、虫歯治療で、神経が出ちゃってて、

それに、ふれる…ふれた!!

ぎゃー!!


みたいな感覚。




そして、消えた、というのも語弊があって、

近い言葉でいうと、すべて幻だった…というのが近いか…

自我は確かにあるし、無くなることも消えることもないんだけど、

その自我が反射してた映像は、まぼろしだった、と気がついたというか…

まあそんな感じだ。


まあ、それは一瞬消えただけで、またすぐ知らないうちに、復活してたんですが!(笑)

(↑それにも気がつけれないという巧妙さ)



よっぽど、「自我」って、「死にたくない」んだよなー。

だって、「あたし自身」なんだから、そこが消えちゃったら、

"あたし"が無くなってしまう。


前に、よく夫婦で自己主張大会をやっていた。(夫婦喧嘩とはあえて言わない・笑)

その時、まだあたしは悟る前だったんで、ワガママ全開だった。


そこで、夫に、「その性格を変えろよ!」とよく言われていた。

あたしは今でこそ、この性格を変えよう、と心から思えるけど、

その時「変われ」と言われた"あたし"は、うめくように言った。


「そんなことをしたら、あたしがあたしで無くなってしまう」


また、あたしが悟ったあと、身内で、自我をあたしにまわりくどく、

そうと気付かれないように押しつけてくる相手に、

あたしは、心の話をした。

そうしたら「そんなことをしたら自分がいなくなってしまう…」と青ざめた顔で言われた。



つまり、それが自我で、「自我」は

死なないように、一生懸命なんだ。

自我は巧妙に隠れてるから、なかなか探し出すことができないよ。


(自分の悪い所は、言われなくても自分が一番よくわかっている、

私は自我を認識している、とみんな思っている

かもしれないけど、そうではない。それは、ねじれにねじれて、

大どんでんがえしみたいな形で存在してるの。

本当に、本当の、真の意味で、"言われなくても自分が一番

よくわかっている"状態になったならば、きっとその時、人は皆、

悟りの境地に入る。)




具体的に、悟った時、なにを考えてて、どういう考えに至ったか、

ということも思いだしてきたんだけど、

それを文字にして残すのに、とても抵抗がある(笑)←笑いでごまかすほど抵抗がある。

とても恥ずかしい。そう、あたし自身を恥じてしまう。だから書けないんだ、なかなか。

それ書いて、意味あるのかなーとか思う。

人類が全員悟れば、地球は平和になるって、わかってるんだけど、

そのためにあたしは、この日記を書いてるんだけど。

神社に行って、祈るのは、この一点だけなんだけど。


あたしが貧乏くじ?をひく必要があるのかー、とか思っちゃう。

自分で好きで書いてるのに、へんなの。


だから、何カ月もかけて、書くよ、って


最初に宣言したんだよなー。

書く覚悟ができたら、書く。



あたしのために。

世界のために。

うん。


あ、でも、これ読む人は、悟った後の人ばかりだろうし、

やっぱり恥をさらしてまで書くのは意味無いのか。

これ読んでも、聖書と同じで、悟れるワケがないし。


とか思うー。




そう、

「必死」になれば、

「悟れる」!


必ず死ぬ状態にまでなって、"神"経にふれる「ギャーッッ!!」で、悟る。



必死→悟り

これこそ、真理だ(笑)!

posted by 辰多みか at 23:00 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年01月31日

至福・至高体験?


あたしは、

気づきがあった時、




「至福・至高」感があったっけ?


なんか、「悟り 体験」でネット検索したら、

悟り体験をした人は、あたしみたいな、みんなが神様! ていう気持ち以外に、




とてもとても幸せで、


感謝の気持ちしかなくて、


涙があふれて、


ありがとうって…


そういう気持ちを味わうみたい…



あたしは、どうだったかな〜??





あたしは、ハッとして、「ああっ、そうだ!!(みんなが神様)」て思ったんだけど、


そこまでで、一瞬で終わっちゃったと思うんだけど。




そういう

感謝感ていうのは、


もっともっと、若い頃に、



なんか突然、



「わあ〜、世界よ、ありがとぉ〜」て思った時があったような気がする。



それは、高校生の時。





あたしは、180度変わった。

きっかけは、ともだちのある一言だったんだけど、


それからのあたしは、

「みんなだいすき、楽しい、うれしい!」ばっかりになって、

それまで超真面目だったから、

前にも書いたけど、「バカ」を演出してみたんだ。

みんなをバカにするんじゃなくて、


あたしが、ぱっか〜んと、

莫迦


になったの。



その状態は、結婚するまで、27才すぎまで続いたんだ。

結婚してからは、いろいろ、また変わったよね。

莫迦ばっかりになってられないからね。



それからが、また、あたしの、生きながらの生まれ変わり、

一生、生まれ変わりの人生なんだけど。




高校生の時は、神様感は、感じなかったな。

まだ、そういう段階じゃなかったと思う。



神様感を感じた時は、至福感は、たぶん無かったな。


「ああっ!!」て、


ただそれだけ。




これから、至福感を味わえる時が来るのかしら。


もっと深い悟りが来るのかなぁ〜。




楽しみだわ。

でも、悟りたい欲求があると、絶対に悟れないからね。


悟りたいって思わないようにしよう…



あ、それも裏があるからダメか…



難しいわ〜。
posted by 辰多みか at 00:00 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2013年01月22日

絶望の後でしか悟れないのか


あたしは、

落ちて

落ちて

落ちて



(この落ちてというのは、まあつまり、気分の事なんだけど)



外に、原因を探したけど、


よく、よくよく探したら、


それはもう、数年単位で、探したら、




実は、自分の中に原因があったという。




それに気がついた時に、



「気づき」があった。


気がついた時の気づき じゃなくて、気がついた後に、気づき。


(だから「悟り」と言った方が、混乱が無いかも)



自分の、中を、中を、中を、ずっとずっとずっと、奥深くにもぐっていったら、

「気づいた」

奥深く・もう出られないほど深い所は、実は、広大な外につながる、出口だったんだけど。






あたしは、自分の子供たちに、体の成長だけじゃなくて、

心、精神的に成長してほしいけれど、



ほんとうに、本当に、人間として成長するならば、

一度、「絶望」を味あわなければならない。



そうしないと、悟れないみたい。

そういうシステムみたい。





でもそれは、親として、困る。

あたしの立場や見栄が困るんじゃなくて、


子供たちを、そんな状況にさせたくない。

いやだ、という意味で、困る。



親としてのあたしは、いつも、それで悩むのだ。



親ライオンが、仔ライオンを崖から突き落とすとか、

可愛い子には旅をさせろとか、



昔の人は、わかってた人がいたんだね。本当に、本当に、真理だ。



だから、子供がなにをしていても、

命に別条なければ、ほっとけばいいのだ、たぶん。


それで、微笑んで、見てればいいのだ、たぶん。



子供が困って泣いてても、

自殺しちゃいそうな一歩手前まで行っても、



ただ、見ていて、そのままでいいよって、言わなくて心で思って、

その子の、いつでも帰ってこれる、安心できる場所を作っておいてあげさえすれば、いいんだ。

「そうすれば、子供は自分の期待どおりに、なってくれる…かも」とは絶対思わないで、

ただただ、ほっておけばいいんだ。



ただ、目は、離さないで。

なんの見返りも期待しないで、

笑顔で、見守って。


子供の命が無くなりそうになった時、はじめて手を伸ばすんだよ、子供に。

本当は、それさえも放っておいて、手も差し伸べない方がいいのかもしれないけど。




それが、親の理想型で、


一番、子供がしあわせで、

一番、親もしあわせで、

なんといっても、一番 楽。


と、思うんだけど、





いろいろなしがらみがあって、できない。


やっぱり、できないってことは、「あたしにとって都合が悪い」と、あたし自身が

反応するから、できないのだろう。



自分の事もできないのに、子供のことまでなんて、できない。

できないのが、世間一般の親なのだろう。




なんて、なんて、未熟だ。

世間も。あたしも。
posted by 辰多みか at 00:00 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2012年12月20日

2度神様を見た事と、子ども時代に感じた視線

あたしは、何度も書いてるように、

一度、「気付き」があって、

それは、30代後半ごろ浜名湖競艇の横の道で、自家用車の後ろの席に乗ってる時で、

それは、人によっては、「悟り」と呼ぶものかもしれないと思ってる事で、

それが、あたしが、神様を見た、と感じてる、一回目。


なにがきっかけで、「気付き」があったのか、「直接の動機」が思い出せないんだけど、

そのころあたしは、悩んでて、(まあ、過去にも常に悩みはあったけれど)

悩んだ末に出てきた結論が、「あたしは、モラ妻・モラ母・モラ嫁になりたいと

望んでいるのかもしれない」という事。

それは、自分では、無意識で。あたしは家族にモラルハラスメントをしようとしてるなんて、

思ってもなかったけれど、自分の行動を分析してみると、確かにあたしのしている事は、モラルハラスメントだ。

そう、自覚した矢先に、「気付き」があった。

とても不思議な感覚だった。



人はひとりひとり、みんな自分の内側にそれぞれ神様を持っていて、

この世の見るものすべてが、全部神様だった。

神を探す時、探求するのは、自分の内側で、そして内側は、すべての外に繋がっている。


そう思った。


けれど、その気付きの感覚は、長くは続かなかった。

ただ、なんか気がついた、という記憶だけあった。



そして、二回目は、統計学を勉強してた時。

特に、標準偏差とかやってる時。40代前半。

追求してると、いつのまにか、複素数の方に行っちゃって、

四次元とか五次元とか、プランク定数とか、オイラーとか

クラインの壺の内側が外側だとか

鏡に映すと次元がひとつ減るとか


むさぼるようにいろんな文献(おもにブログ記事)を読んでしまって、

そして、神様は、

神様は、ただひとつだ、と思った。


以前感じた神様も、実は同じもので、みんな神様だけど、本当はひとつだ。



数式が、神様の輪郭をかたちづくるの。

そうして、人間としての自分と相手を分けるものは、ゼロで、

ゼロとは存在意志なの。


そう思った。




それで、その「気づき」状態を思い出したいんだけど、

なぜ、ずっとその状態が続かないのかなと思ってて、

「悟り 体験」で検索してヒットしたものを読んでみたら、

悟り・気付き体験は、すぐその感覚を忘れてしまう。

だから、何度も本を読んだりして、思い出して、状態を定着させる必要がある、ということだった。

三か月くらい。



筋トレみたいに、トレーニングするものだって、知らなかったよ。

そりゃあ、忘れるはずだわ。



それでさらに、「何かを見ている自分」を「気が付いている自分」というのがいる、ということも、思い出した。


そうだ、あたしは、子どもの頃、一時期そうだった。

あたしはたぶんASD(自閉症スペクトラム)だから、ぐぐっと深く意識の中に入ってしまうんだと思う。

小学一年生の頃、たいしたことはなかったけど、車にはねられそうになった事があった。

数日前に妹が生まれたばかりだった。


人の命が誕生するということ、また命はすぐに消えてしまう可能性があること。


ふたつの事を同時に身をもって知った。

その体験後、あたしは、学校の帰り道、ずっと、「死とは何か」を考えながら歩いた。

それはたしか、何カ月も続いた。小学一年生なのにね。


その時からしばらく、「死とはなにか」を考えている自分を見ている自分 を感じていた。


こどもだから、なにがなんだかわからなかったけど、


そのあとも、「自分を見ている自分」の視線を、中学生頃まで、時々感じていた。


高校生になって、俗世(良い意味で)にまみれ、なりたかった「普通」をめざす生活をして、

その感覚は次第になくなってしまったけど、


そうそう、そういうことを感じてたなぁ〜と、思い出した。

その時あたしは、まさに神の意識と同一になってたってことだね。


やっぱりそれも、トレーニングしないと定着しないみたいなんだけど。

だから、脳の筋トレをがんばるか。




でも、その頃、「変った人」「凡人とは違う人」と扱われ、

(テストの点が良くて授業は常に挙手してたので「天才」と呼ばれ)

同級生なのに、つねに「さん付け」、敬語で話され、

あたし自身も、「まわりのみんなは、あたしと同じ感覚の人がひとりもいない」と感じ、


そして、それが嫌だったので、「普通になりたい」と自分自身に懇願したのだった。

その頃のあたしは、あたしなりに悩んでいたんだよ。



でもまあ、あたしも大人になったし、

神様の話をしてもおかしくない年になったし、

また神の領域を体験したいから、

やっぱり脳の筋トレをがんばるか。
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2012年12月05日

気づきと悟り

あたしは、

悟った ことがあるのか?


それとも、「悟り」の境地で、「目を覚ました」ことがあるのか?




ほんの一瞬だったけれど、

あたしは、そんな境地にいた、ていう記憶がある。


その時に思ったのは、


・人はみんな同じで、みんな神様だということ。

・祈りは、世界平和だけでいいということ。

・世界平和というのは、人類が、すべて、自分を愛するようになるということ。

・自分を愛する というのは、とても誤解を生む言葉なので、真意を

 正確に伝えなければならないということ。



悟ったのか、なんなのか、わからないけれど、

目が覚めて、そして、気づいた。



それは、頭に入れた知識じゃなくて、

確かにそうだ、と体感したこと。



あの、海と湖の出会う場所で。




でね、そう思った(感じた)という記憶はあるのに、

今、それを実感できない。

一瞬だった。



なんども書いてるけど、それを思い出すために、


もう一度、(一度じゃなくても、何回も)

体感するために、この日記を書くの。

そう願ってるんだけど、なかなか、


ふたたびの「悟り」はやってこないの。
posted by 辰多みか at 00:01 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2012年07月30日

かみさま と ゼロ が それぞれふたつ あるっていう話

かみさま

ふたつ っていうか 二種類 っていうか  単位がわからないけど




ひとつは 絶対神 唯一神 いろいろ呼び方があるけど
ただひとつの神 これは 私 いちおう わかってるんだよね。
わかるというより 感じる 感覚 なんだよね。



もうひとつの やおよろずの神 これを 感じた事を 思い出したかったの。
そのために、 昨日、微分積分の本を読んだの。

で、思い出したみたいなの。





高校生の時 微分積分を習った時

いちばん始めに 先生が言った。




「0.9999999999999999・・・・・・・と、どこまでも続く この数は、 もう、 「 1 と イコール」と言っちゃってもいいんです。」





あたしは



納得 できなかった


いちと
イコール
なんてこと
絶対に ぜっっったいに!!
無い!!!


先生は言った。
「いちとイコールと言っても、差し支え無いんです」



あたしは 差し支え ある!!



そう、微分積分を、現実生活に、道具として使うのだったら、

いちとイコールで、全然差し支えない。
というか、いちとイコールだと、とっても、生活に便利。実用生活に役立つ。微積ばんざい。


でもね、
だから、
あたしは
そこから

微積が全然わからなくなった。

(これは成績が悪かったことの言い訳じゃあないよ・・・でも、言い訳でもあるかな?)

納得してないまま、先に進めない。


なんとか テストの計算は、事務的に進めたけど
(で、ある程度 点はとれたけど)


さっぱり 理解できなくなった。
公式は、テストが終わったら、頭からあっという間に抜けてしまった。



それで 今に至る。


微積で覚えているのは、 0.9999999・・・・=1 が納得できなかった事だけ。




で、昨日本を読んだ。


で、ようやっと納得した。





0.99999999・・・・=1 では やっぱり無い って事!


0.999999・・・と 1 は イコールではないって事!


イコールではないって事を、納得したの。
腑に落ちたの。

ううん、もっというと、イコールでは無い って事を確信したの。





本にはなんて書いてあったと思う?


0.99999999・・・=1 です って書いてあったよ。

そのための証明式もあったよ。

本に書いてあった証明式はね、
0.9999999・・・=x とする
10x-x=
10*0.9999999・・・-0.9999999・・・=9

10x-x=9x だから


9x=9 つまり x=1


て書いてあるの。

あたしは思った。
ちがうじゃん。
やっぱり 1 じゃないじゃん。

だって

9.999-0.9999 は 8.9991だし
9.9999-0.99999 は 8.99991だし
これをずっとやっていくと、 やっぱりどこまでいっても 9 にはならないし。


もしも 0.9999999・・・=1 だったら



アキレスは 亀に追いつくよ。
追い越せるかどうかは知らないけど。


無限小の逆数は 無限大になるけど
ゼロの逆数は やっぱり ゼロ



微積は 実用数学だ。
そこを忘れちゃいけない。



で、思い出したの。




やおよろずの神は  無限小と無限大のところにいるって。




ゼロはふたつあるんだよ。

無限小がゼロに見える、「無限小をゼロと勘違いするゼロ」と
本当のゼロ

あ、ほんと言うと みっつあるかもしれない。


「見せかけのゼロ」(これは座標の原点みたいなところで、数の濃度がうんと薄くなってる所が、
立体的に重なり合って、ある方向から見ると ゼロ点に見える って所)
と、あと、さっきのふたつのゼロ



この中の、「無限小をゼロと勘違いしてるゼロ」が、仏教でいう 「空即是色 色即是空」なんだよ。たぶん。

で、やおよろずの神は このゼロなの。「無限小をゼロと勘違いしてるゼロ」なの。

で、無限小を逆数にすると無限大になるの。
ということは、ゼロなのにすべてが存在してるゼロ っていうのが この事なの。


このゼロ(に見えるモノ)は、自分の中にしかないの。





ということは、もうひとつの神さまは、本当のゼロの事なのかなぁ〜
そこは、まだ感じないなぁ
もうすこしつきつめれば そうなのか そうじゃないのか 感じとれるかしら。
posted by 辰多みか at 00:00 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする

2012年07月13日

ヒッグス粒子

見つかったんだって。
神の粒子と呼ばれてるんだって。

あたしがはたちくらいの時かな??
テレビで素粒子の番組をやってて。
6個あってあと何個かみつからないって言ってた。
あとでいつの番組だったか調べてみるね。
いつの番組だったかは今問題じゃないんだ。
はやく見つからないかなぁ〜て思ったよ。
それがもし高校生の時だったら、中学生の時だったら、
理系に行って、そういう大学に行きたかったな。
英語が好きだったから、迷わず(迷う選択枝がなく)
文系にしたんだよね。
でもそういうタイミングじゃなかったって事は、
人生でやっぱりなんか意味があるんだよね。

まあ、いいや、言いたいのはそんなことじゃない。
神の粒子 って名前だ。
科学者はそういう名称に納得してないようだ。
あたしもそうだよ。
あんなの 神 じゃない


神 さま を見た のは、

今までで 2 回 ある。


最初にみた(感じた)神様は、やおよろずのかみ で、


それは 自然界に たくさん存在してるんだ。

あたしは霊能力とか無いから、

目で 見たわけじゃないけど。

あるとき、胸に すとーん、と落ちてきた。

俗にいう、 腑に落ちる ってこと。

私の中にも あなたの中にも 神さま がいる。

そういう、たまに耳にする事、
すごぉーく納得したんだ。



でも、それがどうして腑に落ちたかが、
今どうしても思い出せない。

いつも思う。
浜名湖の競艇の横の眺めがすばらしい道路を車で走ってる時。
遠くに富士山が見えちゃったりして。

そこで、 すとーんって、 落ちてきたんだよ。腑に。

あ、腑って、 いがいと堅いんだよ。あたし主婦だから生のゾウモツとか触るけど、
生みたいに、あんな柔らかくない。どっちかというと、ゆでた後のモツとかキモとかハツとかみたいな?
けっこう手ごたえある。でも金属みたいな堅さではない。
腑に落ちるの 腑 はそんな感じ。なんだろな、チャクラとかなのかな?オーラ??ぜんぜんわかんないや。

あ、そうそう、それでいつも思う。競艇の横の道で。
ここで悟ったんだから、ここを通れば、また悟れるんだろうと。
でも、思い出せないんだよなー。
だから、こうやって日記を書く。
そうすれば、また思い出せるかもしれない。
また思い出したいほんとうに。


その時感じた のは やおよろずの神 

でもでも、そのあとわかっちゃったんた。


か み さ ま って




ひとり いや いっこ ?? いやいや ひとつ しかいないってこと。


だから

やおよろずの神っていうのは 
ほんとうの ほんとうの意味での 神様ではない

やおよろずのかみ を どんなのかって、無理に定義すると


超人的な 存在
うーん 人間にできないような うん 人間にもできるけど

一部の人にしかできないような事ができる 人? 自然? 存在

いや 定義できない 無理だった・・・はやく思い出さないと。



それで ほんとうの たった ひとつの か み さ ま は

それは



宇宙の ただひとつの法則。


宇宙 ていうか 私たちが住んでる この 世界 っていうか うーんなんていえばいいんだろ

この世 ? うん それも語弊がある


まあ、この宇宙が生まれた、最初の きっかけ というか 運命 というか
聖書には 言葉 ってなってるみたいだけど。

そう、意志 なんだ。

神様って。




これは聖書を読んだりしてわかったことじゃないよ。
聖書っぽいもの(wikiだ)で確認したのは、わかったっ!! て思ったそのあとだよ。

で、いつ わかった かというと。



独学で 統計 の勉強をしてる時だよ。

統計の勉強を 独学 ですすめてると

 これ大事、 独学 って事。

ひとりで勉強してるからインターネットで関連事項を次々しらべちゃう。

精度 カタヨリ とかそんな項目を、自分なりにいっしょうけんめい理解しようとしてると、
まず、母集団の平均値は 神様しか知らない という 現実 にぶちあたる。
そこで 神 が軽くでてくるんだけど。
まあ、その神様の事は 今はちょっと心に留めておいてね、程度だ。
あ、ちなみに母集団 て 
おかあさんたちの集まり とか じゃないよ (統計の用語だよ)


ここでちょこっと神が見えちゃったけど(実はこれも本当の神様の一部だよ)



本当に 神 が姿を現すのは そのあとだ。


そんなこんなでネットでいろいろ調べてると、
いつのまにか i (虚数)とか 複素数とか そっちの世界へ行っちゃう。

四次元とかにも行っちゃう。


あ、四次元の、もういっこの軸は、 時間 じゃないからね!!

ほかの3つの軸と全く同じ性質の、もういっこの軸だからね!! たしざんだからね!!

アインシュタインに関連するのは 三次元に時間をかけざんした 四次元時空 だからね!!
SFに出てきてタイムマシンで飛べるのは、この四次元時空だ。

ついでにいうと、この世? は 六次元 まであるよ。あら 11次元だったか?? プラスマイナスの世界まで
いれると その倍 あるよ。


あ、四次元の事は、まあいい。
またの機会に書く。



で、そこで あ、虚数空間で

神様に会ったわけなの。



たぶん、数学者って、 神様 を感じてるんじゃないかな。
だって数字のむこうに あたしは 色とりどりの 風景 を感じるよ。



それは、もしかしたら、太古の人たちも感じてて、
ほかの 感じ取れない人に つたえるために

いろいろ物語にして聞かせて


それは聖書では ヤハウェ? とか エホバ? とか 名前がついたんじゃないかな

(あ、この名前は、 単に 日本語に直してるから なんこもあるんであって

もともとは ひとつ だよ)。






かみさまはなんていったのかな さいしょ。


たぶん


   あ--------------ぅん

だよ

うふふ





それで宇宙ができたの。









神様を感じたい人は 統計学の 確率 を独学するといいね。ネットでね。
ちょっとまわりみちだけどね。
でもパチンコにも応用できて実用的な学問だよ(たぶん・・・パチンコやったことないからわからないけど)
うん、競馬や競艇にも応用できるよ!(きっと・・・)


てっとりばやくは、四元数 とか 虚数 とか 複素数 とかいいよ。
でもよっぽどわかってないと、神様を感じる前に 挫折 するかも。
やっぱ 統計学 経由で 虚数空間 がいいね。


あぁそうそう、かみさまって

本当に平等だからね

幸も不幸も 全部平等だからね


私は不幸だ 神様は不公平だ って
言う人いるけど


神様不公平じゃないから。
不幸を平等に あなたに分けているんだから。



うーーん、そうだなぁ まとめると

神様っていうのは 宇宙のはじまりと現在も適用されている ただひとつの法則 で、
確率 の中にその姿を見る事ができて

もうひとり(ひとグループ)いる やおよろずの神 は また違った定義の神様 ってこと。


また思い出したら、もっとくわしく書きたいな
うん 書く。






いつも聖書の話をする人たちが来たんだ。


玄関を開けたら



ものすごい笑顔の人 つくり笑顔。 なんか こわい って思ったよ。
め が し ん で る

笑顔の人 のうしろには うつむいて 人の目を見れない 陰気な人

そのふたりがペアで来た。はじめて来た人たち。

なんか いつも聞くおきまりのあいさつことばのやりとりのあと


笑顔の人がいきなり 笑顔で




神様はいると思いますか?




ってきいたんだ。


あたしは即座に


いると思います。います。


って答えた



笑顔の人、、、なんとびっくりした 笑顔が消えうせ驚愕の顔になった
そしてうしろの陰気な人と顔を見合わせて、こっちを見て言った。

ええっ いると 思ってらっしゃるんですか あ、そう、そうですね
そうですよねぇ・・・いますよねぇ・・・


あたしは思った。
あんたは いる って思ってなかったんかい。なんでそんなにびっくりする。
なにを信じて その宗教をやってるの?

あたしは宗教関係なしに いる って感じたよ
あなたたちは 感じない の?



答えるものめんどくさいので お話しするのも適当にお断りして
帰っていただいた。


まあ、
いる って答える人がいる事を 想定してなかっただけのことだと思うけどね。



今の宗教活動は  

いれもの だけだ

どれもこれも。


中身は なんにも はいっていない
とても綺麗な入れ物



その事も あとで じっくり書くね。




ああ、誤解があるといけないから書くけど


あたしは ヤハウェもキリストもブッダもアラーも
全部信じてるよ。そのほかのいろんな国の(インドとか?)
宗教とかギリシャとか日本のやおろずの神も
みんな 信じてる

全部・・・・みんな・・・・同じ事をいっている、たぶん。
元は 太古の人が感じた 同じ事を いってるんだ。

日本の神やギリシャの神は ちょっと人間入ってる・・・けど

でも否定しないよ。 ぜんぶ ほんとうのことだ。
posted by 辰多みか at 00:01 | 悟った時のこと | 更新情報をチェックする
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