2013年01月04日

イエスの言いたかった事


あたしは、キリスト教も勉強してこなかったんで、

さらにあまりwikiも検索もせず、

ただ、どこかで聞いて耳に残っていたフレーズが、ある日突然、

腑に落ちた日の事。



それは、

「隣人を愛しなさい」「愛こそがすべて」



何度も書いてるけど、

あたしはある日突然悟った。


それはレベル的には悟りとは言わず、気づきというのかもしれないけど、

「そういう」状態の中で、一瞬だけ、目を開けた事があるんだ。

まあ、その時、あたしは、車の後部座席で、湖面を見てたから

物質としての目はずっと開いてたわけなんだけど。



意識の中で目を覚ました。



いろいろな思いがやってきた。


自分の外側はみんな鏡 だとか

人はみんなそれぞれ神様 だとか

内面はそのまま意識の外面につながっている とか

人にも物にも、すべて神様が宿っている とか




そして、「隣人を愛しなさい」の意味が、腑に落ちたの。


隣人、つまり、敵に愛さえ送れば、自分は恐ろしい事から逃れられる、というような、

そんな感じでとらえていたけれど、そうではなかった。


これは、こうやって字面で見れば「そうではなかった、って、あたりまえじゃん」て

みんなわかっている事だろうけど、

本当の意味で愛を送っている人、実際の行動でできている人は

まったくといっていいほどいない(と思う。ていうか身近にあまりいない。)。



敵が「私」に向けてくる脅威をなくす目的に使う「愛」は、もちろん本当の愛ではなくて、

ただ愛に似た形をとっただけの、詐欺的な「愛」だ。「愛」とも呼べない。

だからそれは敵には伝わらず、伝わるのは、「相手を恐れている気持ち」と

「愛に似せた卑怯な手を使ってなんとかその場をおさめようとする気持ち」


その場面が、この世界に、なんと多いことか。


ほんの、小さな事だよ。

敵とは、「私」を殺すような、重大な事をしてくる人の事(だけ)ではない。

すぐそこにたくさんある、ほんのささいなこと。


そうして、その敵を変える事は、絶対にできない。

愛 でしか できない。



矛盾みたいに見えるけど。




相手を変える事は、愛でしかできないけど、

そもそも「愛」は、相手を変える事も望んでいない。


相手を変えようと思った瞬間、「愛」は「愛」でなくなる。




それが愛だ。



イエスが言ってるのはこのことなんだ。

それを、湾曲して自分の都合の良いように思い込んでいる人のなんと多いこと。

それは聖書を勉強しているという人たち(集団)でもそうだ。

(だってもらった冊子に湾曲した事が書いてあるんだもの)


そう思った。

みんなが本当の「愛」を持てば、この世界は本当に平和になるのに。


でもあたしも、本当の愛を持ち続けるのはむずかしい。


そう思った。



そのあと、なにかに取りつかれたように、

ネットで、「北風と太陽」を検索した。

あたしの心の旅がはじまったのは、その時からだ。

「北風と太陽」の、太陽は、愛 だ。



それがその時きづいたこと。

あたしが悟りと思ってること。


posted by 辰多みか at 00:01 | ひとつの神と八百万の神 | 更新情報をチェックする

2012年12月08日

完全な自分と不完全な自分

昔むかし、世界がひとつだった頃

世界は「自分」で、


「自分」は完全だった。


「自分」は永遠にひとつで、


光も闇も無く、

時間さえ「自分」の中に在ったから、



ただ、「自分」は「在る」という存在だった。

「在る」か「無い」かでいわれたら、「在る」という、

1か0かでいわれたら、1 という、それだけだった。




「自分」は力を持っていた。





「自分」は常にふるえていた。



なぜかというと、そういう仕様だから。


ただ在り、ふるえる力を持っていた。





ふるえる力によって「自分」は「自分」の中に、

「ゼロ」でできた膜を取り込み、

分割していった。


ひとつひとつの「自分」が、かつて「自分」だった、大きなゼロの膜の中に、

たくさん出来、そして、「自分」と思い込んでいる、アワ玉のひとつは、

他のアワ玉は、「自分ではない」と認識した。




その認識が、すべてのアワ玉で起こった。

なぜかというと、ひとつのアワ玉と全く同じ見た目・中身のアワ玉は、

存在してないからだ。



分割したとたん、「自分」は不完全になった、が、

「自分」の意識のままでいたので、不完全さに気がつかなかった。



形的には、完全な球ではなく、そのままでは丸くはなれず、

せいぜい切頂八面体みたいにしかなれない。

細長く伸びてるのもいるし、隣りの「自分でないもの」がせり出すせいで、

狭い思いをしている「自分」もいるのだ。

だから、まず、形が不完全だ。

数値的には、完全な1ではない。足りない。



ひとつのアワ玉になった「自分」は、最初その形のまま、完全だと思っていて、

そう振る舞う。



すると、まわりのアワ玉たちから、「おまえは完全ではない」と言われる。

直接言われる事もあるし、態度で示される事もある。

まわりは、アワ玉の形・大きさを目にして、そう言うのだが、

「自分」はなかなか受け入れられない。


そのうち「自分」も、まわりには完全なアワ玉はひとつもない、と気が付く。


そうして「自分」と同じだと感じる不完全を持っているアワ玉に対して、

恐れ、怒り、責任をなすりつけるようになり、苦しむ。




本当は、「自分」は、永遠に存在する、大きなひとつなのに。

なろうと思えば、「かつての自分」と同じ、球になれる可能性を持っているのに。




「かつての自分」は、分割した「自分たち」を内包しながら、

ふるえ続ける。



ゼロはどこまでも、無限に浸透していく。

浸透するというのは、分割を続けるという意味で、

すべての数がゼロに置き換わり世界はゼロになる という意味ではない。


「自分」は、自分自身を、無限大まで、分割していく。

なぜなら、「数」に果てがないからだ。

それが「永遠」の由来で、世界のはじまりと終わりだ。



分割は無限大まで続くが、


ゼロが形を変えて伸びる率は、約2.71828倍 にしかならない。

それ以上に伸びると、膜がはじける。

ゼロの膜の寿命が、ひとつの「自分」の寿命だ。



本当は、この最初の、大きな「完全な自分」の球は、

三次元ではなくて、四次元以降にいるので、

中身がはじけると、それは、ひっくり返って、球の外に出るのだ。


そしてまた、新しい膜ができて、新しい「自分」が生まれるのだ。

「自分」の中身は、リサイクルされている。





あたしたちひとりひとりの「自分」は、この世界、この宇宙に

在るものすべて足して、完全でひとつだ。


その意味では、あたしたちは、ひとりも不必要な人間はいないし、

不必要な物質・不必要なものごと、出来事は無い。



この世界に在るものすべて、完全なひとつの「自分」にとって、必要だ。


かつての、最初のただひとつの「自分」を、神と呼ぶなら、

今この世界に在るものすべてが、「神」だ。



という事を、さっきお昼ごはんに、水菜と肉団子のスープを食べながら、

NHKの生活笑百科を見ながら、


ぼんやり考えていた。




以前、浜名湖競艇の横の道で、ぼんやり考えてた事も、こういう事だった。




でも、最初はひとつで、あとは永遠に分割しつづける、というのも、

力が外部から働いた、と考えないと、

ちょっと無理あるな、とやっぱり思う。


それで、力がどこから出てくるかはわからないけど、

「そういう仕様」という部分は、

統計学や確率を独学してる時に、思った事で、

それがあたしが、数式の向こうに、神様を見た瞬間だったの。


「そういう仕様」をつくったのが、まさに、神様だと思ったの。



数式というのは、たとえば、オイラーの等式とかなんだけどね。
posted by 辰多みか at 00:00 | ひとつの神と八百万の神 | 更新情報をチェックする

2012年12月07日

神との対話92ページ

92ページまで読んだよ。

途中、「三位一体」の所で眠くなって、うとうとしていたら、

三位一体のものが浮かんでは消え浮かんでは消える夢を見ていたよ。


で、なんかハアハアなって、起きた。読んでたページが全部おでこで

折れ曲がってた。



この本は、「真実」だと思うけど、


あたしが思ってる(見た)神様と、


ほんのすこ〜し、違うな。



まず、神様は、最初から、「存在のすべて」。

「在る」という存在で、完璧ですばらしいものだった。これは、そう、そのとおりだと思う。


で、神様は、そのままだと、対称になるものが無くて、

「すばらしい」ということが体験でわからないので、

それを体験したくて、まず、ふたつに分かれた。


ひとつと、ひとつと、あと、分かれるために、無(ゼロ)ができた。

ひとつは、「自分」で、もうひとつは、「自分でないもの」そして、それを包むゼロ

「自分」は「すばらしいもの」で、「自分でないもの」は、「すばらしくないもの」

これが、本に書いてあることだよ。



そうだ、あたしが、ゼロは「存在意志」だと思ったのは、この事なんだ。

このゼロは、本当の本当の、「何もない」という意味のゼロだよ。

で、分かれるために、ゼロができたんだけど、そもそも、神様が存在してるのも、

最初から「ゼロ」をまとってるから、とあたしは思う。

ゼロはいろんな形になる事ができて、連続してるんだ。



でね、ここからはあたしの考えなんだけど、この「自分」と「自分でないもの」は、

「自分」が 1 で、「自分でないもの」が -1 てことだよね。 

対称で、反対だから。


で、それを式にすると、こうなるよ。

1 +(-1) +0 =0

ゼロになっちゃうよ。

1/2でもいいんだけど、そうすると、

1/2 +(-1/2) +0 =0 やっぱりゼロだよ。

神様、存在してないよ。



だから、あたしは、こう考えてた。


神様が完璧な、「1」だとすると、

「自分」は1/2で、「自分でないもの」も、1/2で、ゼロは、0だね。

で、1/2+1/2+0=1 なんだ。

自分も自分でないものも、数値にすると同じなの。





同じ、プラス の座標系 で起こってる事なの。


それで、「自分」は元々「すばらしいもの」だったんだけど、分割された事によって、

欠けた、完璧じゃない物になったの。



たぶん、座標系は、平面のあちらへZ方向があって、

おのおのの1/2は、Z方向へ回転していて

その回転角度で、「色」が決まるの。

1/2は数値的には同じなんだけど、色が違うの。


でね、たぶん、回転角度も、分割されたすべての数値を合わせると「1(=360゚)」に

なるようになっているんだよ。

立体座標(三次元投影)で考えると、回転角度は、Z座標値におきかえられて、「色」はなくなるの。


で、1/2という数値かもしれないけど、

波の形をしてるかもしれないよね。

高いところ低い所、打ち消しあう平均の横線は、ゼロ座標じゃなくて、y=1 だよ。





神様は、経験したくて、自分を分割したと、本に書いてあるけど、


あたしも、以前そう思ったのは、聖書や、日本の神話を見ていて、そう思ったからで、

「ビッグバン理論」もあって、そう思ったからで、

たぶん「神との対話」の作者さんも、数々の神話からヒントを得ているんだ。



ビッグバン理論も、最初、物質と反物質ができて、ほんの少しだけ、物質の方が多かったから、

この宇宙は消えずに、物質が残った、という説があるけど、


その説でいけば、神様は、全く半分には分かれずに、ちょっぴりだけ、プラスが多かった、ということだ、

でも、神様が、自分に対して、そんな不公平をするだろうか?

神様は、完璧じゃなくて、ゆらいでるから、そうなっちゃったんだろうか?

でもそしたら、「完璧」がそもそも定義できない。



あたしが考える神様は、

うん、そうだな、ビッグバン否定になるかもしれないけど、



割れないシャボン玉、もしくは、丸い透明ガラスにはいった、ほんの少しのシャボン液で、


シャボン液の部分は、「ゼロ」で、

中の空気が、「神様」で、



「分割したい」と思ったから、勝手に「振動」して、

ひとつだったアワ玉が、むくむく、たくさんになるんだ。

シャボン液は、アワ玉の表面の回転や膜の薄さで色が変わり、アワ玉は「あれ」は

「自分」と違う色だと認識する。

あたしの神様感は、こんな感じなんだけど、

ひとつ、勝手に振動して、が問題なの。



本当に自分で振動したんだろうか。

だとしたら、神様は、最初から振動していて、そしてその振動は永遠に止まらない。


それか、「神様」の外に、また別の「神様」が横に並んでて、

その別の神様はどんな姿をしててもいいんだけど、

突然ぶつかって「振動」を与えてきたのか?


これって、量子の話なのかな。

やっぱり量子の勉強をしないといけないのか。

めんどくさいな。
posted by 辰多みか at 00:01 | ひとつの神と八百万の神 | 更新情報をチェックする
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